「愛多ければ憎しみ至る」は、「あいおおければにくしみいたる」と読みます。
特定の人が度を越してかわいがられると、ほかの人のねたみや反感を招くという意味のことわざです。
ここでいう「愛」は、恋愛感情だけを指すものではありません。
上司の引き立て、親や教師の特別扱いなど、立場の強い人から一人へ偏って注がれる愛情や寵愛も含みます。
この言葉は、中国の道家系の書物『亢倉子』に見える「愛多則憎至」に由来します。
原文の前後まで読むと、単に「人気者は嫌われる」と述べた言葉ではなく、よい行為であっても度を越せば反対の結果を生むという、加減の難しさを説いた言葉であることが分かります。
「愛多ければ憎しみ至る」の意味・読み方・使い方
読み方と意味
「愛多ければ憎しみ至る」の読み方は「あいおおければにくしみいたる」です。
現代の日本語では、特別にかわいがられたり引き立てられたりする人は、その一方で、周囲の人からねたまれたり憎まれたりしやすいという意味で使われます。
「愛多ければ」の「多い」は、愛してくれる人の人数が多いという意味だけではありません。
一人に注がれる愛情や恩恵が多すぎること、つまり偏った寵愛や特別扱いを表しています。
このことわざは、かわいがられた本人を責める言葉ではありません。
愛情を注ぐ側に対して、善意から始めた行為でも公平さを欠けば、周囲との関係を壊す可能性があると戒める言葉として受け取るのが自然です。
「愛多ければ憎しみ至る」を使った例文
・部長が一人の部下だけを何度も抜てきすれば、愛多ければ憎しみ至るで、本人に落ち度がなくても周囲の反感を招きかねません。
・祖父母が長男の子にだけ高価な贈り物を続けたため、愛多ければ憎しみ至るという言葉どおり、親族の間に不満が生まれました。
・監督が実力だけでなくお気に入りかどうかで選手を起用すると、愛多ければ憎しみ至る結果になり、チームのまとまりまで失われるでしょう。
「可愛さ余って憎さ百倍」との違い
「可愛さ余って憎さ百倍」は、強くかわいがっていた相手に裏切られたと感じたとき、それまでの愛情が激しい憎しみに変わることを表します。
愛する人と憎む人が、基本的には同じです。
一方、「愛多ければ憎しみ至る」は、一人が特別にかわいがられた結果、別の人たちから反感を買うという意味で使われるのが一般的です。
どちらも愛情と憎しみの近さを扱いますが、憎しみが生まれる人間関係に違いがあります。
出典は『亢倉子』の「用道第二」
原文の「恩甚則怨生、愛多則憎至」
「愛多ければ憎しみ至る」のもとになった言葉は、『亢倉子』の「用道第二」にあります。
原文は次のとおりです。
「恩甚則怨生、愛多則憎至」
日本語として読み下すと、「恩甚だしければ則ち怨み生じ、愛多ければ則ち憎しみ至る」となります。
分かりやすくいえば、恩恵が過度になれば恨みが生じ、愛情が過度になれば憎しみを招くという意味です。
「恩」と「愛」、「怨」と「憎」を対応させ、善いものでも過剰になれば悪い結果へ転じることを短い対句で表しています。
なお、原文だけでは、誰の愛が誰の憎しみに変わるのかまでは細かく説明されていません。
現代の日本語のことわざ辞典では、特別な寵愛を受けた人が第三者のねたみや恨みを買うという意味で説明されるのが一般的です。
原典の一節には「過度な恩愛が反対の結果を招く」という広い意味があり、日本のことわざでは、その一例である偏愛と嫉妬の関係が分かりやすく示されていると考えられます。
原文の前後から分かる本来の戒め
よいことも度を越せば逆効果になる
「用道第二」では、「愛多則憎至」だけが独立して語られているわけではありません。
その直前には、敬いすぎると親しくなれず、親しくしすぎると敬意が失われるという趣旨の「敬甚則不親、親甚則不敬」が置かれています。
続いて、近づけようとするとかえって疎遠になり、距離を置くことでかえって親しくなる場合もあるという趣旨の言葉が記されています。
さらに、「愛多則憎至」の後には、速さを重んじるべきこともあれば遅さを重んじるべきこともあり、まっすぐ進むべき場合もあれば遠回りすべき場合もあると続きます。
最後は、あらゆる物事にふさわしい加減を見つける道筋は非常に細やかであり、それを知らなければならないという趣旨で結ばれています。
この流れから分かるのは、『亢倉子』が愛情そのものを否定しているわけではないことです。
親しさ、敬意、恩恵、愛情のいずれも必要ですが、相手や状況を考えずに度を越せば、期待とは逆の結果を生むと説いています。
愛情の量よりも偏りが問題になる
日本語のことわざとして使う場合、問題になるのは愛情の深さそのものではなく、周囲から見て不公平に映るほどの偏りです。
職場で一人だけに重要な仕事や昇進の機会を与えたり、家庭で特定の子どもだけを褒めたりすれば、受け手が望んでいなくても周囲との間に溝が生まれることがあります。
このことわざは、愛情を減らすべきだと勧めているのではありません。
善意を相手のために生かすには、公平さと節度も必要であると教える言葉です。
『亢倉子』は誰が書いたのか
古くは庚桑楚の著作とされた
『亢倉子』は、道を社会や政治、人の生き方にどのように用いるかを論じた道家系の書物です。
古くは、老子に関係する人物として伝えられる庚桑楚が著した書物とされていました。
庚桑楚は『荘子』にも登場する人物ですが、歴史上の実在人物であったかどうかは明らかではありません。
そのため、「愛多ければ憎しみ至る」を庚桑楚本人の発言として断定することには注意が必要です。
現在伝わる本文は唐代に補われたもの
現在伝わる『亢倉子』の成立については、清代に編纂された『四庫全書総目提要』に詳しい説明があります。
それによると、唐の天宝年間に『亢桑子』という書物が重んじられたものの、当時すでに本文を得ることができず、王士元が『荘子』など諸書から内容の近い文章を集めて、失われた部分を補いました。
現在の書誌情報でも、伝わっている『亢倉子』は唐代の王士元がまとめた書物として扱われています。
したがって、現在の本文を、そのまま古代の庚桑楚が書き残した文章とみなすことはできません。
一方で、「恩甚則怨生、愛多則憎至」が現在伝わる『亢倉子』の「用道第二」に収められていることは確認できます。
日本のことわざ辞典が『亢倉子』を出典としているのも、この本文に基づいています。
「愛多ければ憎しみ至る」に表れた人間関係
寵愛は本人以外にも影響を与える
「寵愛」は、単に心の中で誰かを大切に思うことではありません。
立場の強い人が特定の相手を引き立てれば、地位、役割、物品、機会などの配分にも影響する場合があります。
『亢倉子』の「用道第二」は、農夫、商人、臣下、君主など、それぞれの立場に応じた「道」に触れたうえで、人の親しさや敬意、嫉妬といった関係を論じています。
この文脈を踏まえると、「愛多則憎至」は、個人の内面だけでなく、集団の中で偏った扱いが生む関係の変化にも通じる言葉と読めます。
ただし、これは前後の文章からできる解釈であり、原文が特定の家庭や宮廷の事件を記録したものではありません。
現代でも公平さを考える場面で使える
現代では、家庭、学校、職場、スポーツチームなど、複数の人が同じ集団に属する場面で使いやすいことわざです。
責任者が特定の人だけを目に見えて優遇すると、その人の能力や努力まで正当に評価されにくくなることがあります。
かわいがられた本人を守るためにも、愛情や評価を示す側が、理由を説明できる公平な接し方を心がける必要があります。
古い中国の一節でありながら、善意の示し方まで考えさせる点に、このことわざが現在にも通じる深さがあります。
「愛多ければ憎しみ至る」に関するよくある疑問
恋愛に関することわざですか?
恋愛だけに限ったことわざではありません。
親子、兄弟姉妹、教師と生徒、上司と部下など、一人への特別な愛情や引き立てが、ほかの人の反感を招く場面に広く使えます。
愛した本人が相手を憎むという意味ですか?
現代の日本語では、かわいがられた人が、周囲の第三者から憎まれるという意味で説明されるのが一般的です。
ただし、出典の「愛多則憎至」は誰が憎むのかを明記しておらず、過度な愛情が反対の結果を招くという、より広い戒めとして読むこともできます。
「可愛さ余って憎さ百倍」と同じ意味ですか?
よく似ていますが、中心となる人間関係が異なります。
「可愛さ余って憎さ百倍」は愛していた本人の感情が憎しみに変わることを表し、「愛多ければ憎しみ至る」は特別にかわいがられた人が第三者の反感を買うことを表します。
『亢倉子』は古代中国で書かれた本ですか?
古代の庚桑楚の著作として伝えられましたが、現在伝わる本文は唐代の王士元が諸書の文章を集め、失われた部分を補ったものとされています。
古代の人物がそのまま書き残した本と断定するのではなく、唐代にまとめられた道家系の書物として扱うのが慎重です。
まとめ
愛情には公平さと節度も必要
「愛多ければ憎しみ至る」は、特定の人が度を越してかわいがられると、ほかの人のねたみや憎しみを招くという意味のことわざです。
中国の道家系の書物『亢倉子』「用道第二」にある「恩甚則怨生、愛多則憎至」に由来します。
原典では、敬意や親しさ、速さや遅さなどを例に、物事には状況に合った加減があり、度を越せば反対の結果になると説いています。
また、現在伝わる『亢倉子』は唐代の王士元が補ってまとめたものとされるため、古代の庚桑楚本人の言葉と断定することはできません。
愛情を否定するのではなく、善意を人間関係の中で生かすには公平さと節度が欠かせないと伝える言葉です。


