宮崎県の山あいの集落や沿岸部の家庭で、ひっそりと受け継がれてきた郷土菓子が「いりこ餅」です。
都市部の和菓子店や全国的な観光土産として広く知られている存在ではありませんが、地域の言葉遣いや身近な食材、そして日々の暮らしの中で培われてきた知恵が凝縮された菓子として、今も各家庭や小さな和菓子店で作られ続けています。
いりこ餅は、特別な祝い菓子というよりも、農作業の合間や人が集まる場で自然に食べられてきた「生活の菓子」といえる存在です。
その素朴な見た目とは裏腹に、名前の由来や呼び名の違い、材料の変遷をたどると、宮崎を含む南九州の歴史や食文化の重なりが浮かび上がってきます。
本記事では、いりこ餅という不思議な名前に込められた意味を手がかりに、その歴史的背景や地域ごとの伝承、家庭での作り方までを整理しながら紹介します。
単なるレシピ解説にとどまらず、なぜこの菓子が今も語り継がれているのかを、「伝承」という視点から丁寧にひもといていきます。
宮崎の伝承――いりこ餅とは?郷土菓子の名前に隠された意味
名称の由来:『いりこ』と『いこ餅/こもち』の違いを解説
「いりこ餅」という名前から、小魚の煮干し(いりこ)を使った餅を想像する人も少なくありません。
実際、香川や瀬戸内地方では「いりこ=煮干し」という認識が一般的であるため、初めて名前を聞いた人が戸惑うのも無理はないでしょう。
しかし、宮崎で伝わるいりこ餅の「いりこ」は、魚介のいりこを意味するものではありません。
有力とされているのは、「煎る」「炒る」といった調理工程を表す言葉、あるいは「いこ(行こ・生粉)」と呼ばれた餅生地に由来するという説です。
「いこ」は、蒸した穀類を搗く前、あるいは搗き上げた直後の柔らかい生地を指す古い言い回しで、南九州を中心に使われてきました。
そのため、いりこ餅は特定の材料名ではなく、餅の状態や作り方を示す名称として生まれた可能性が高いと考えられます。
地域によっては「いこ餅」「こもち」とも呼ばれ、これらはいずれも餅粉やもち米を蒸してこねた菓子を指す言葉でした。
「こもち」は「粉餅」「子持ち」といった語感が混ざり合い、家庭で作る素朴な餅菓子全般を指す呼称として使われていた例もあります。
つまり、いりこ餅という名称は、材料そのものよりも、製法や生地の柔らかさ、仕上がりの状態を表す言葉が時代とともに変化し、現在の呼び名として定着したものと考えられるのです。
九州の呼び方分布:宮崎県と鹿児島での呼称・店舗事情
いりこ餅に近い菓子は、宮崎県だけでなく鹿児島県南部でも確認されています。
鹿児島では「いこ餅」「ねったぼ」「かからん団子」など、似た製法を持つ甘味が数多く存在し、いずれも甘藷(さつまいも)文化の広がりと深く結びついています。
これらは見た目や食感が似ていても、材料配合や成形方法、食べる場面によって名称が分かれてきました。
宮崎県内でも、地域差ははっきりしています。県北では比較的「いこ餅」という呼び名が残り、県南や都城周辺では「いりこ餅」と呼ばれる傾向が見られます。
現在では家庭で作られる機会が減少し、常設で販売する店舗は多くありません。
道の駅や地域イベント、季節限定で製造する和菓子店で見かける程度となっており、「知る人ぞ知る郷土菓子」としての位置づけが強まっています。
郷土菓子としての役割:団子や郷土料理として伝わる背景
いりこ餅は、単なる甘味というよりも、地域社会の中で人と人をつなぐ役割を果たしてきた菓子でした。
日常のおやつとして食べられる一方で、田植えや収穫後、祭りの準備といった共同作業のあとに振る舞われる「寄り合い菓子」としての性格も強かったといわれています。
各家庭で作り方や甘さ、形に違いがあり、「あの家のこもちは甘い」「この家はいもが多い」といった会話が自然に交わされていました。
そうした違いそのものが地域文化の一部であり、いりこ餅は家庭の数だけ味がある郷土菓子として、長く親しまれてきたのです。
伝承と歴史:高麗伝来~甘藷導入が生んだ食文化の変化
起源論争:高麗(こうらい)由来説と名前の変遷
いりこ餅の起源については、高麗(朝鮮半島)から伝わった餅菓子文化が原型になったという説があります。
古代から中世にかけて、朝鮮半島と日本列島の間では人や物、技術の交流が活発に行われており、食文化もその影響を受けてきました。
蒸した穀物を臼で搗き、甘味を加えて成形するという技法は、日本各地の餅文化と共通点が多く、南九州でも比較的早い段階から受け入れられ、土地の食材に合わせて独自に発展したと考えられます。
特に南九州は、外来文化を柔軟に取り入れながら生活に根付かせてきた地域でもあります。
そのため、伝来した餅菓子の製法がそのまま残るのではなく、在来の言葉や調理習慣と結びつき、少しずつ姿を変えていきました。
その過程で「こもち」「いこ餅」といった呼称が生まれ、生地の状態や作業工程を表す言葉として使われるようになります。
やがて、蒸した生地をこねる、炒るように水分を飛ばすといった工程が強調される中で、「いりこ餅」という名称が定着したと考えられます。
これは特定の材料名ではなく、作り方や仕上がりを示す呼び名が残った例であり、口承文化の中で名前が変化していく南九州らしい特徴ともいえるでしょう。
甘藷・もち米の導入と生地変化の歴史的経緯
江戸時代以降、甘藷が南九州一帯に普及すると、餅菓子の材料にも大きな変化が起こりました。
それまで主流だったもち米だけの生地に甘藷を加えることで、腹持ちがよく、自然な甘みを持つ菓子へと変化していきます。
この変化は、嗜好の問題だけでなく、米が貴重だった時代背景とも深く関わっています。
甘藷は痩せた土地でも育ちやすく、安定した収穫が見込める作物でした。
そのため、もち米の量を減らし、甘藷を混ぜる工夫は、節約でありながら栄養価を高める合理的な知恵でもあったのです。
家庭ごとに甘藷の割合や砂糖の量が異なり、「この家のいりこ餅は芋が多い」「あそこの家は餅が強い」といった違いが自然に生まれました。
こうした配合の違いは、地域や家ごとの味の個性となり、いりこ餅が画一的な菓子ではなく、多様性を持った郷土菓子として定着する要因にもなりました。
地域行事での利用例:祭りや家庭の『こもち』文化
正月や盆、地区の祭りといった節目の行事では、大皿に盛ったいりこ餅を切り分け、集まった人々に配る風習が各地に見られました。
特別な祝い菓子というよりも、「みんなで分け合う菓子」としての性格が強く、家族や近隣とのつながりを象徴する存在だったといえます。
現在でも高齢世代の記憶の中には、「祖母が蒸籠で作っていたこもち」「蒸し上がる匂いが家中に広がっていた」といった具体的な情景として残っています。
いりこ餅は、味そのものだけでなく、作る時間や家族の会話と結びついた記憶として受け継がれてきた郷土菓子なのです。
家庭で作る本格レシピ:いりこ餅の作り方と材料ガイド
基本材料と割合の選び方
一般的ないりこ餅の材料は、もち米(または餅粉)、甘藷、砂糖、少量の塩です。
非常にシンプルな構成ですが、それぞれの素材の選び方によって仕上がりの食感や甘みが大きく変わります。
もち米を使う場合は、粘りが強く、蒸し上がりがふっくらしたものを選ぶと、昔ながらのもっちりとした食感になります。
一方、餅粉を使えば作業が簡略化でき、比較的安定した仕上がりになるため、家庭で手軽に作りたい場合に向いています。
甘藷は水分量と甘みのバランスが重要で、ほくほく系よりもしっとり系の品種のほうが、生地となじみやすいとされています。
もち米と甘藷の割合は1:1前後が基本ですが、もちもち感を重視する場合はもち米をやや多めに、芋の風味を前面に出したい場合は甘藷を多めにするとよいでしょう。
砂糖は控えめでも甘藷の自然な甘さが活きるため、地域や家庭によって分量に差が出やすい部分でもあります。
ステップ別作り方
1:甘藷を蒸して皮をむき、熱いうちにつぶす。繊維が気になる場合は、裏ごしすると口当たりが良くなります。
2:もち米は一晩浸水させてから蒸す、または餅粉を湯で練り、耳たぶ程度の柔らかさに調整します。
3:甘藷ともち生地を合わせ、砂糖と塩を加えてよくこねます。この工程でしっかり練ることで、全体が均一になり、蒸し上がりの割れを防げます。
4:生地を棒状または平たく成形し、蒸し布を敷いた蒸籠で再度蒸します。蒸し時間は大きさにもよりますが、15〜20分が目安です。
5:蒸し上がったら粗熱を取り、包丁を湿らせながら切り分けます。
保存・温め直し・おすすめの食べ方
いりこ餅は保存料を使わないため、保存は冷蔵で2〜3日が目安です。
乾燥を防ぐため、ラップや密閉容器に入れて保存すると品質を保ちやすくなります。
固くなった場合は、蒸し直すことで作りたてに近い柔らかさが戻ります。
また、軽く焼いて表面を香ばしくし、きな粉や黒蜜をかけると、別の菓子のような味わいを楽しめます。
家庭によっては砂糖醤油を少量つけて食べる例もあり、甘さと塩気の対比を楽しむ食べ方として親しまれています。
栄養とカロリー:材料別の成分と健康上の注意点
もち米・餅粉・甘藷それぞれの栄養成分
もち米は主に炭水化物からなる食品で、体を動かすためのエネルギー源として優れています。
特に粘り成分であるアミロペクチンを多く含むため、腹持ちがよく、少量でも満足感を得やすいのが特徴です。
一方で消化が早いため、活動量の多い日のおやつや軽食として昔から重宝されてきました。
甘藷は食物繊維が豊富で、腸内環境を整える働きが期待できる食材です。
加熱しても壊れにくいビタミンCを含む点も特徴で、素朴な菓子でありながら栄養面でも一定の価値があります。
砂糖を控えめにし、甘藷本来の甘さを活かすことで、エネルギーと栄養のバランスが取れた間食になります。
一個あたりの目安カロリーとダイエット向け工夫
いりこ餅一切れ(約50g)のカロリーは、およそ100〜120kcalが目安とされています。
これは一般的な和菓子の中では比較的控えめな部類に入り、食べる量を調整しやすい点が特徴です。
ダイエット中に取り入れる場合は、小さめに切り分けてゆっくり味わうことがポイントです。
また、白砂糖の代わりに黒糖やきび砂糖を使うことで、コクを出しつつ満足感を高められます。
甘藷の割合を多めにする配合にすれば、食物繊維量が増え、食後の満足感も持続しやすくなります。
アレルギー表示・保存時の注意
いりこ餅の主原料は米と甘藷であり、比較的アレルギーリスクの少ない菓子といえます。
ただし、家庭や店舗によっては風味付けとして大豆粉やきな粉を使用する場合があり、大豆アレルギーのある人は注意が必要です。
また、防腐剤を使用しないため、保存中の管理は重要です。
高温多湿の環境ではカビが発生しやすいため、冷蔵保存を基本とし、密閉容器やラップで空気に触れないように保管しましょう。
長期保存には向かないため、できるだけ早めに食べ切ることが安心です。
まとめ
いりこ餅は、名前の誤解を招きやすい一方で、宮崎の言葉や風土、食文化が幾重にも重なり合って生まれた郷土菓子です。
煮干しを連想させる呼び名とは異なり、その本質は製法や生地の状態を表す言葉の変遷にあり、地域の暮らしの中で自然に形づくられてきました。
甘藷ともち米という身近な素材から生まれたこの菓子には、米を大切に使うための工夫や、収穫物を無駄にしない知恵、そして家族や地域で分け合う文化が色濃く反映されています。
家庭ごとに配合や味が異なる点も、画一化されない郷土菓子ならではの魅力といえるでしょう。
いりこ餅は、単なる昔菓子ではなく、地域の記憶や語りを内包した存在です。
これからも作り手や語り部を通じて伝えられていくことで、宮崎の食文化を知る手がかりとして、その価値が改めて見直されていく郷土菓子であり続けるはずです。

