科学と化学の違いとは?

科学は、観察や実験などによって確かめられた体系的かつ法則的な知識のことです。

広義には、自然科学(物理学、化学、生物学、地球科学、天文学など)や社会科学(政治学、経済学、経営学、法学、社会学など)、哲学、心理学、言語学、人文科学(人間科学など)などが含まれます。

その中で、自然科学に属する化学は、物質の構造や性質、および物質同士の反応を研究します。

言い換えれば、物質がどのような構造をしているのか、どのような性質を持っているのか、また相互作用によってどのように変化するのかを調査する分野です。

なお、化学は科学全般と混同されないように、別名「ばけがく」とも呼ばれています。

科学とは?

科学という言葉は、ラテン語の「scientia」(知識)に由来し、フランス語を経て17世紀初期に英語として定着しました。

古代には科学と哲学の区別はありませんでしたが、それが近世(特にF・ベーコン以降)になって分かれていきました。

近代自然科学が成立する以前は、自然に関する理論的な学説は「自然哲学」や「自然学」と呼ばれていました。

自然科学は実験と数学的解析によって形成されましたが、古代から中世にかけての自然哲学にはこの方法が欠けており、「自然を観察しても自然科学は生まれなかった」と言われています。

現代では、広義の意味で「科学」という言葉が全ての学問を指すこともあります。

人類は古代から、自然界の現象や人体の構造に関心を持ち続けてきました。

古代オリエント、古代インド、古代中国などの文明圏では、これらに関する知識や経験が蓄積され、学問として発展しました。

特に古代ギリシア・古代ローマの自然哲学が後世に影響を与えました。中世にはイスラム科学が先進的であり、ヨーロッパは後進的でしたが、イスラム諸国から科学や技術を取り入れ、追いつきました。

20世紀の歴史学者ハーバート・バターフィールドは、17世紀のヨーロッパにおいて、自然現象を単に観察するのではなく、実験によって知識を進歩させる試みが始まり、これを「科学革命」と呼びました。

学問としての科学とは?

科学革命以降、科学的な手法が次第に確立され、各分野の科学はその対象に応じて適切な方法論や手法を発展させてきました。

しかし、科学的と見なせる方法の境界は明確ではなく、科学者たちは歴史を通じて議論を重ね、現在もその議論は続いています。

学校教育の影響で、科学が一つの実験で成り立つと考えられがちですが、実際には様々な実験が科学を支えています。

数世紀にわたる議論は混乱していましたが、20世紀前半の科学哲学者カール・ポパーが反証可能性の概念を提示し、これを条件として理論や科学理論が科学に属するかどうかを明確にしました。

ポパーの概念は、混乱した議論に悩まされていた科学者たちに受け入れられ、科学と疑似科学を区別する基準として広く受け入れられました。

しかし、ポパーの科学観に対する批判が1960年代から加えられるようになりました。

その代表的なものが科学史家トーマス・クーンのパラダイム論です。パラダイム論によれば、観察は単にデータを受動的に知覚するだけでなく、特定の見方や考え方に基づいて事象を能動的に解釈する行為であり、パラダイムそのものは他のパラダイムの出現によって置き換えられる可能性があるとされています。

また、科学に属する学問は科学的である一方で、科学そのものは一種の思想であるとする意見もあります。

分類可能性と予測可能性は一体不可分であり、科学は過去の知見を元に未来を予測する傾向があります。しかし、このような確信は時に論理的な前提や確率的現象によって裏切られることがあります。

自然科学と科学技術

『世界大百科事典 第2版』によれば、「科学とは今日通常は自然科学を指す。人文科学,社会科学という呼び方もある」とされています。

17世紀以降、ヨーロッパで近代科学が展開されると、それ以前の伝統的な自然哲学は実験的で実証的な根拠を持たないとして否定され、自然哲学という用語もあまり使われなくなりました。

日本では物理学、化学、生物学などを「理学」と呼んでいますが、英語にはこのような概念はありませんでした。

第一次世界大戦と第二次世界大戦では、科学者たちは国家に動員され、化学兵器や核兵器の開発に関与し、戦争の結果として多くの人々の命が失われる悲惨な結果をもたらしました。

アインシュタインは「科学技術の進歩は、病的犯罪者の手にある斧のようなものだ」と述べました。特に原爆の開発に関与した科学者たちに対する責任の追及が行われ、科学界内外から批判の声が上がりました。

今日では、科学は社会から分離した純粋な知的活動としてではなく、科学的、政治的、経済的、文化的な価値がその研究と技術革新にどのように影響するか、そして科学や技術が社会、政治、経済、文化にどのように影響を与えるかについて考察する必要があります。

このような領域を科学技術社会論と呼び、科学者たちも積極的にその研究に参加しています。

日本における科学の概念とは?

佐々木力によれば、「科学」という語は中国では12世紀頃から、科挙で試される学問「科挙之学」の略語として使われていたとされる。

日本では、かつて「科学」は様々な学問や分科の学問を指す意味で用いられていました。

明治時代に英語のscienceが導入された際、啓蒙思想家の西周がこれを様々な学問の集まりと解釈し、「科学」という訳語を当てました。

最初は「科學」と旧字で表記されていましたが、新字体の採用により「科学」と書かれるようになり、それが現在まで続いています。

中国でも、若干の用語の違いはありますが、scienceの訳語として「科学」が使われています。また、中学校の教科としての「科学」は日本の「理科」に相当します。

科学の起源と歴史

人間が自然界を認識し、その原理や法則性を科学的に探求し始めた起源を明確に特定するのは難しいです。

しかし、遡ること先史時代、約370万年前のタンザニアでは、既に二足歩行をする人類の祖先の足跡が残されていました。

約230万年前には石器を使い始め、その後50万年前には火を利用し始め、さらに10万年前には人工的に火を起こせるようになっていました。

こうした道具の使用や技術の発展は、人間の知的能力の急速な向上をもたらし、約3万年前には絵画を描くなど高度な知的能力を獲得していました。

この知能の発展は多くの複雑な要因や背景によって生じたものであり、考古学者ヴィア・ゴードン・チャイルドは『文明の起源』で、「人類は自らを作り上げてきた」と主張しました。

彼によれば、人間の労働活動自体が大きな知的進化を促し、その進化が人間の労働の複雑さを増し、言語や技術の進化をもたらしたと考えられます。

しかし、人類がどのようにして知的能力を獲得したのか、という問いにははっきりとした答えを見つけることは非常に難しいです。

アジアの科学のはじまり

紀元前3000年頃、古代エジプトやメソポタミアで文明が興りました。

メソポタミアのシュメール人は紀元前3100年に文字を発明し、神殿を中心とした国家を形成しました。

労働力や財力を管理し、ピラミッドやジッグラトなどの巨大建築物を建設するために、正確な測量技術や数学が発展しました。

神事や農業のために暦が作成され、天文学も発展しました。医療もこの時期から発展し、メソポタミアでは紀元前3000年、エジプトでは紀元前2000年に内科や外科、皮膚科などに分類された症例の記録が文献に残されるようになりました。

ただし、この時代の医療は神秘的な儀式や呪術と密接に結びついており、占星術や儀式の要素が強かったです。

同時期に、インダス文明、黄河文明、長江文明なども発展しました。

紀元前5-3世紀の中国では、戦乱の中で諸子百家と呼ばれる思想家たちが登場しました。

例えば、墨子の思想には数学の要素が含まれています。

また、鍼灸や按摩、漢方薬などの伝統的な中国医学もこの時期に確立されました。紀元前3世紀には、秦の始皇帝によって度量衡や漢字が統一されました。1世紀にはシルクロードを通じた西洋との交流が盛んになりました。

しかし、漢字の分解の難しさから、漢字圏では原子論が生まれず、体系化が進まなかったとされています。

2世紀以降、中国では羅針盤や火薬、紙、印刷などの「四大発明」が生まれ、地震計なども発明されました。

また、張衡や祖沖之、何承天らが数学や天文学を発展させ、張衡は世界初の地震計を発明し、月食の原理を解明しました。後漢時代に成立した『九章算術』には様々な数学の問題が載っており、後に中国や日本の数学教育のテキストに採用されました。

ギリシアの科学のはじまり

紀元前7-6世紀、古代ギリシアではポリスが形成され、特にアテナイが発展しました。

海運交易によって富を得た商工階級の中から、世界の成り立ちについて研究する人々が現れました。

ピタゴラスは数学の研究を行い、宇宙論では「大地は球形」とし、地球や惑星、太陽、月などが中心火の周りを回転するという、特異な地動説を提唱しました。

デモクリトスは原子論を唱えました。この時代には、健康や病気に関する知識と実践は神殿での祈祷や迷信的な治療に依存していましたが、ヒポクラテスは迷信を排除し、具体的な観察に基づく実践的な医学を目指し、「医学の父」として知られるようになりました。

紀元前5世紀から紀元前4世紀にかけて、アテネはサラミス海戦(前480年)でペルシアに勝利し、民主政治がより徹底し、経済的に繁栄し、文化と科学が発展しました。

プラトンはアカデメイアという学園を創設し、幾何学の重要性を説きました。

アカデメイアの門には「幾何学を知らざる者は入るべからず」という言葉が掲げられ、学生たちを指導しました。

プラトンは宇宙の説明にも幾何学的手法を取り入れようとし、円運動で天体の動きを説明する宇宙論を唱えましたが、惑星の不規則な運動についてはうまく説明できませんでした。

プラトンの門下生であるエウドクソスは同心天球説を提唱し、地球を中心に27個の天球が回転する運動で、惑星や月、太陽の不規則な運動を説明しようとしました。

また、同じくプラトンの門下生であるアリストテレスは、天文学ではプラトン的な説明にとどまりましたが、生物学では卓越した観察力を示しました。

彼は動物について多くの研究を行い、約540種の動物を形態に基づいて分類し、『動物誌』や『動物部分論』などの著作を残しました。

アリストテレスは自然の階段説を唱え、無生物から人間まで連続的な進化を主張しました。彼は広範な領域にわたる経験的な探究を行い、「万学の祖」と呼ばれるほどの業績を残しました。

古代ギリシアの諸都市が衰退すると、その科学的伝統はイスラム科学に受け継がれ、後の時代には主にイスラム科学からヨーロッパの近代科学へと受け継がれることになりました。

古代ローマの科学のはじまり

紀元前3-2世紀、古代ギリシアが古代ローマに征服され、ローマ帝国として発展しました。古代ギリシアの科学研究が本格化したのはマルクス・テレンティウス・ウァロ(紀元前116年 – 紀元前27年)の時代からとされています。

しかし、ローマでは実用的な研究に重点が置かれ、ギリシアの文化や思想はあまり受け入れられませんでした。

ウァロはギリシアの科学から知識を取り入れ、学問を9つの分野に分類して整理しました。

それは文法学、論理学、修辞学、幾何学、数学、天文学、音楽、医学、建築学です。

その後、包括的な研究が進み、道路やローマ水道の整備、建築や彫刻の技術の向上がなされました。

プリニウスは『博物学』、ウィトルウィウスは『建築書』、セネカは『自然の研究』などを記しましたが、ギリシアの科学を盲目的に受け入れ、また自然界のすべてが人間のために造られたという思想のために、ギリシア的な学問は衰退していきました。

中性アラビアの科学

アラビアでは強力なイスラム帝国が統治し、ギリシア科学の文献が熱心にアラビア語に翻訳されて研究されました。

アッバース朝のバグダードでは、学問の中心となる図書館(知恵の館)が設立され、多くの学者がここで活動しました。

フナイン・イブン・イスハークを中心にネストリウス学派の学者が協力して翻訳作業を行い、100以上の文献がアラビア語に翻訳されました。

数学では『シッダーンタ』が翻訳され、アル=フワーリズミーによって代数学が導入され普及しました。

医学はアヴィケンナらによって発展しました。また、ジャービル・イブン・ハイヤーンは薬剤師として活動し、バグダードでの研究と医療活動を通じて錬金術の基礎を築きました。

しかし、12世紀以降、ファーティマ朝やアッバース朝の滅亡、スペイン人のコルドバ侵攻などにより、学問は衰退しました。

その後、イスラム圏では実利のないことに対する無関心が強まり、科学の中心はキリスト教圏に移っていきました。

近世の科学

18世紀には、科学の進歩が著しく、さまざまな分野で重要な発見や理論の確立が行われました。

力学はラグランジュによって体系化され、自然の法則として認識されました。

イギリスではブラックやキャヴェンディシュが気体の研究を行い、酸素や水素が発見されました。

一方、フランスではラヴォアジェやドルトンらが活躍し、19世紀には原子論が展開されることになりました。

フランスでは理工科学校が設立され、フーリエやラプラス、ラグランジュ、アンペール、ゲイ=リュサック、カルノーらが多岐にわたる分野で活躍しました。

同様に、ドイツでもベルリン実業学校から技術者や企業家が輩出されました。

ヴォルテールはニュートンの思想をフランスに紹介し、ディドロは多数の執筆者を集めて『百科全書』を完成させました。これらの動きはフランス革命へとつながっていきました。

18世紀後半から19世紀にかけて、学問の分野がさらに多様化しました。ボルタやエルステッド、ファラデーによって電気学が、カルノーやクラウジウス、ケルヴィン卿によって熱力学が、リンネやウォルフによって生物学の研究が本格化しました。

また、ヴェーラーやリービッヒによって有機化学が始まり、染料や薬品の合成、栄養学が開始されました。進化論はラマルクやダーウィンによって提唱され、細胞説はシュライデンらによって提案されました。

日本の科学の起源と歴史

古代・中世の日本では、縄文時代や弥生時代を経て、4世紀ごろにヤマト王権と呼ばれる政治的統一体が形成されました。

5世紀には、渡来人が大陸の技術を伝え、6世紀には儒教や仏教も伝来しました。公式な文化交流は、遣隋使や遣唐使を通じて9世紀まで続きました。

10世紀には、唐風の文化が日本の風土に適合するように変容・吸収され、国風文化が花開きました。しかし、技術の普及は限られ、庶民の生活は苦しいものでした。10世紀半ば以降、軍事貴族が地方に赴任し、武士階級へと発展していきました。

12世紀には、平氏や源氏などの武士が政治的な影響力を高め、天皇家や摂関家との対立で存在感を示すようになりました。技術は発展しましたが、数学や天文学の伝統は停滞しました。

医学の分野では、6世紀に『医心方』や『本草和名』などが成立し、14世紀には『頓医抄』などが登場しました。15世紀には、李朱医学が伝わり、有機的な発展を遂げました。

西洋との接触が始まった16世紀には、ポルトガル船が来航し、鉄砲やキリスト教が伝わりました。さらに、天文学や航海術の書籍が翻訳され、技術の導入が進みました。

17世紀には、ポルトガルやスペインに加えて、イングランドやオランダも日本との貿易を始めました。また、日本人が東南アジアに渡航して中国との貿易を行う際に、江戸幕府は朱印状を発行して彼らを保護しました。

しかし、幕府はカトリックの禁教と国際的な紛争を避けるために、貿易の管理と制限を強化しました。

1610年代には、ヨーロッパ人の寄港地を長崎や平戸に限定し、1620年代にはスペインとの関係を断絶しました。

1630年代には、朱印船貿易を廃止し、ポルトガルとの関係を断絶し、オランダ人を長崎の出島に隔離しました。

和辻哲郎は、鎖国と儒教的な文教政策の影響で、日本人の創造活動が衰退していったと述べています。

このような状況下で、海外との文化交流は制限されましたが、徳川吉宗は漢訳洋書の禁を緩和し、青木昆陽らにオランダ語を学ばせることを命じ、蘭学の始まりをもたらしました。

医学の分野では、抽象的な議論から実証的な古医方に移行しました。

蘭学では、前野や杉田玄白による『解体新書』や、理学者の本木良永や志筑忠雄による著作が広まり、太陽中心説が識者の間で広まりました。

また、本草学や医学の分野でも多くの進展がありました。江戸時代後期には、西欧の文化が積極的に導入され、蒸気機関の完成や医学教育の発展が行われました。

科学とは?

化学は、さまざまな物質の構造や性質、および物質同士の反応を探求する自然科学の一分野です。

具体的には、物質がどのような構造であり、どのような特性や性質を持っているか、そしてそれらがどのように相互作用し、変化するかを研究します。

日本語では、同音異義語である「科学」との混同を避けるために、化学を「ばけがく」とも呼びます。

化学は、自然科学の一部門であり、さまざまな物質の構造や性質、および物質同士の反応を研究します。

化学の分野は、基礎科学や応用科学など、さまざまな学問領域と密接に関連しています。物質の性質を理解し、新しい物質を創造するために、化学は重要な役割を果たしています。

近年の化学では、原子や分子のレベルで物質の構造や性質を解明し、新しい物質や反応を設計することが重要視されています。

化学は蓄積型の学問であり、新しい物質が常に発見されるため、その知識も絶えず増加しています。

化学の成立は比較的遅く、近代的な化学が発展したのは18世紀末からでした。

しかし、その短い歴史の中で、化学は急速に発展し、広範囲な分野に応用されるようになりました。

今日の化学は、生産や製造のほぼすべての段階に深く関与し、さらに新たな分野への展開も期待されています。

化学反応とは?

異なる物質を混合したり加熱・冷却したりすると、新しい化合物が生まれることがあります。これが化学反応です。

化学反応は、物質を構成する原子同士の結合の変化によって引き起こされます。

化学反応前後では、全体の質量が変化しないという法則があります。これが質量保存の法則です。

化学反応は、エネルギーが低い方向に向かう発熱反応と、エントロピーが増大する反応が相反しながら進行し、最終的に平衡状態に達します。

酸と塩基の関係は、水溶液の性質を理解する上で重要です。

酸は水素イオンを生じたり受け取ったりする物質であり、塩基は水酸化物イオンを生じたり受け取ったりする物質です。これらの性質によって、溶液の性質や中和が決まります。

また、燃焼や金属製錬、腐食などは、酸化と還元のプロセスで説明されます。

酸化還元は電子が単独で動き、電圧と密接に関係し、電流を生じさせる原理となります。

化学合成は、化学反応を利用して単純な物質から複雑な物質や特定の機能を持つ物質を生成することを指します。

これには、重合反応や医薬品製造、ナノテクノロジーなどが含まれます。化学合成には、触媒や不斉合成などの研究が必要です。

化学の主要な分野

化学は、さまざまな研究手法や対象物質の違いによって、多様な分野に分かれています。

しかし、これらの分野は互いに関連しているため、厳密に区別することは難しい場合があります。以下に、代表的な分野をいくつか紹介します。

物理化学

物理化学は、物理学的な理論や測定方法を用いて、化学の対象物質を研究し、物質やその性質、反応を理論付けし分類する分野です。

例えば、熱力学や量子力学的手法を用いることがあります。また、量子化学や計算化学といった分野も急速に発展しています。

無機化学

無機化学は、有機化合物を除くすべての物質を対象とする分野であり、錯体化学や地球化学、放射化学などの境界領域も含まれます。

有機化学

有機化学は、有機化合物を扱う分野であり、生物体の組織を構成する物質から始まり、後に有機体以外から生成される有機化合物も対象に含まれるようになりました。

薬学や生物有機化学との関わりが深く、合成化学や立体化学などの分野も含まれます。

高分子化学

高分子化学は、非常に大きな分子である高分子を取り扱う分野であり、工業化学や生産技術とのつながりが強いです。

生化学(生物化学)

生化学は、生物や生命現象を化学的に研究する分野であり、酵素や生体内の物質、代謝機能などを扱います。分子生物学や遺伝子工学にも関連します。

分析化学・機器分析化学・合成有機化学

分析化学や機器分析化学は、物質の測定や分離を目的とする分野であり、工業や臨床検査などに応用されます。合成化学は、物質の合成や開発を目的とする分野です。

応用化学

応用化学は、さまざまな技術や工程で用いられる物質や反応を研究する分野であり、工業化学や農芸化学などに分かれます。

環境化学

環境化学は、地球や生物圏における化学物質の影響や環境問題を研究する分野であり、地球環境化学とも関連します。

化学の起源と歴史

科学の歴史は複雑であり、長い年月を経てきた。

火の発見により、最初に金属の精錬や合金の製造などが可能になり、それに続いて物質の本質を探求する錬金術が始まった。

アラビアでは、ジャービル・イブン=ハイヤーンをはじめとする多くの学者が錬金術を研究し、多くの成果を残したが、後に複数のアラブ人学者が錬金術を批判するようになった。

近代化学は、化学と錬金術を区別することから始まった。例えば、ロバート・ボイルは『懐疑的化学者』(1661年)などでその一例である。

そして、アントワーヌ・ラヴォアジエが質量保存の法則(1774年に発見)を確立し、化学現象において精密な測定と定量的観察を要求するようになったことで、化学は本格的な科学として確立された。

錬金術と化学は、両方とも物質の性質とその変化を研究するが、科学的方法を適用するのは化学者である。化学の歴史は、熱力学の歴史とウィラード・ギブズの業績を通じて密接に絡み合っている。

化学の始まりは火と原子論

化学の起源は燃焼という現象にさかのぼることができる。

火は、物質を別のものに変える不思議な力であり、それゆえに古代社会では驚きと迷信の源となった。

食品の調理による食習慣の変化や、陶器や特定用途向けの道具の製作など、火は古代社会にさまざまな影響を与えた。

原子論は古代ギリシアと古代インドにその起源を持つ。

ギリシアの原子論は、紀元前50年にローマのルクレティウスが著した『万物の本性について』(De Rerum Natura)にまで遡ることができる。

この記述では、デモクリトスやレウキッポスが物質の最小単位として原子(アトム)を提唱したとされている。

同時代のインドの哲学者カナーダも同様の考えを提案し、その内容はヴァイシェーシカ・スートラの中で見られる。

カナーダの提案は瞑想によって生まれたものであり、ガス(気体)の存在も議論された。アリストテレスは紀元前330年に原子の存在を否定し、ヴァイシェーシカ学派の原子論も長い間反論された。

ヨーロッパでは、キリスト教会がアリストテレスの著作を重要視し、原子論は異端視された。

しかし、13世紀にアリストテレスの著作がアラビア語からラテン語に翻訳され、トマス・アクィナスとロジャー・ベーコンによってヨーロッパに再紹介された。

錬金術の起源と賢者の石

古代エジプトなど、昔から錬金術と呼ばれる前科学が興った。

錬金術師たちはエリクサーや賢者の石などを求めた。

歴史的に、錬金術はさまざまな文化で実践され、哲学や神秘主義、前科学が結びついた形跡が見られ、多くの人々が安価な金属を金に変える方法に興味を持った。

錬金術は金に変えるだけでなく、ペストなどの疫病に苦しむヨーロッパでは医薬品の開発にも期待された。

しかし、不老不死の霊薬や賢者の石を発見したという記録はない。

また、生物に命を吹き込むと信じられた「エーテル」が空気中に存在するとする信念も錬金術師の特徴とされる。錬金術の実践者には、生涯をその研究に捧げたアイザック・ニュートンなどがいた。

化学の始まりと初期の化学者たち

科学的方法が発展するまでには時間がかかりましたが、化学に関する科学的アプローチの萌芽は中世のイスラム教徒の化学者たちの間で現れました。

その中でも特に重要なのが、9世紀に多くの人々が化学の父として尊敬するジャービル・イブン=ハイヤーン(またはゲベルス)でした。

彼はアランビック(蒸留器)を発明し名付け、数々の化学物質を分析し、宝石職人を集め、アルカリと酸を区別し、多くの薬を作り出しました。

イスラム教徒の他の有力な化学者には、アリストテレスの四元素説を批判したジャアファル・サーディクやラーズィー、そして金属変性の理論で名声を博したキンディー、アブー・ライハーン・アル・ビールーニー、イブン・スィーナー、イブン=ハルドゥーン、そして物質は変化できるが消えることはないという質量保存の原則を記述したナスィールッディーン・トゥースィーなどがいます。

ヨーロッパでは、錬金術は比較的誠実な医者にとっては知的な活動であり、時が経つにつれて洗練されていきました。

パラケルススは、四元素説を否定し、イアトロ化学(医薬化学)と呼ばれる錬金術と科学のハイブリッドを形成しました。

ただし、パラケルススの実験が真に科学的だったかは疑わしいとされています。

たとえば、彼は水銀と硫黄の組み合わせで新しい化合物を作り出すという自説の延長として、『硫黄油』というものを作り出しましたが、実際にはジメチルエーテルであり、水銀でも硫黄でもありませんでした。

ロバート・ボイルは錬金術の近代的な科学的方法を見直し、錬金術と化学の間の距離を広げるのに貢献しました。

ボイルは原子論者でしたが、原子という言葉よりもcorpuscleという言葉を好んで使いました。物質がその特性を保持する最小の部分は、彼によれば原子(corpuscles)のレベルでした。

ボイルはまた、ボイルの法則で特筆されます。

彼はまた、記念碑的な著書『懐疑的化学者』で、物質の原子説を発展させようとしましたが、成功しませんでした。

これらの進展にもかかわらず、「近代化学の父」と称されるのは、1789年に質量保存の法則(またはラボアジエの法則)を発見したアントワーヌ・ラヴォアジエでした。これにより化学は定量的な性質を持ち、信頼できる予測が可能になりました。

日本における化学の歴史

幕末から明治初期にかけての日本では、化学は「舎密(セイミ)」と呼ばれました。この言葉は、化学を意味するラテン語系オランダ語 Chemie の音訳です。

初めての近代化学を紹介する書籍は、江戸時代の宇田川榕菴による『舎密開宗』(せいみかいそう)でした。

これはイギリスの化学者ウィリアム・ヘンリーが1801年に出版した『An Epitome of Chemistry』の日本語訳です。

宇田川榕菴は、日本語に存在しない学術用語に新しい言葉を作り、酸素、水素、窒素、炭素などの元素名や、酸化、還元、溶解、分析などの化学用語を考案しました。

「化学」という言葉は、川本幸民が1861年に著書『化学新書』で初めて使用し、後に明治政府が正式に採用しました。

この言葉は、日本から中国などに伝わった和製漢語の一つとされていましたが、近年では中国語からの借用語であると考えられています。

中国語では、「化学」という言葉は墨海書館が発行した月刊誌『六合叢談(中国語版)』の1857年の号で初めて使用されました。

一般的には、中国語の単語「化学」は、徐寿がイギリスの専門書『化学鑑原』(1871年)を翻訳する際に造られたとされています。

まとめ

化学と科学は密接に関連しており、化学は科学の一分野です。以下に、それぞれの概要とその関係についてまとめます。

化学

化学は、物質の構造、性質、変化を研究する科学分野です。

原子や分子の概念に基づき、物質がどのようにして組成され、反応して変化するかを理解します。

化学は実験や理論、数学などの手法を用いて、新しい物質の合成や化学反応の解明を行います。

応用面では、医薬品の開発、材料工学、環境保護、食品科学など様々な分野において重要な役割を果たしています。

科学

科学は、自然界や現象についての知識を体系的に獲得し、理解しようとする学問体系です。

科学は観察、実験、理論構築、推論などの方法を用いて、客観的な知識を獲得し、その知識を体系化します。

科学は物理学、化学、生物学、地球科学などの様々な分野に分かれており、それぞれが特定の領域を研究します。

科学の目的は、自然現象の法則を発見し、その法則を用いて世界を説明し、予測することです。

化学は科学の一分野であり、物質の性質や変化に焦点を当てて研究します。

科学全体としては、化学を含む様々な分野が相互に関連し、統一された理解を提供します。そのため、化学は科学の中でも重要な役割を果たしています。