すしの表記には「寿司」と「鮨」と「鮓」の三つがある。
最も古い表記は「鮓」で、かつては塩や糟に漬けた魚や、発酵させた飯に魚を漬けた保存食を指していた。そのため、発酵させて作るすしを意味し、「馴れずし」がこれに当たる。
「鮓」の漢字は、鯖鮓や鮎鮓、鮒鮓など関西系のすしで使われることが多い。
次に古い表記は「鮨」で、中国では「魚の塩辛」を意味していたが、「鮓」と混同され、すしを指すようになった。
「鮨」の漢字は、握り鮨、押し鮨、棒鮨など馴れずし以外のすしに使われ、現代で最も一般的な「すし」は握り鮨(江戸前)であるため、江戸前系のすしに多く用いられる。
「寿司」は江戸時代に縁起担ぎで作られた当て字で、「寿を司る」の意味や、賀寿の祝いの言葉の「寿詞」に由来するとされる。
かっぱ巻き、稲荷寿司、手巻き寿司、五目寿司など、ネタに魚を使わないすしには「鮨」や「鮓」の漢字は適していないが、「寿司」は当て字であるため、ネタの種類を問わず使える。
また、すしの種類も問わず使えることや、縁起担ぎの意味もあり、現在、「寿司」が最も一般的な表記として用いられている。
「すし」とは、米飯などと主に魚介類を組み合わせた和食の一種である。特に握り寿司が有名であり、伝統的にはわさびとともに食べられる。
「すし」には、乳酸を主たる酸味成分とする「なれずし」などと、酢酸を主たる酸味成分とする「早ずし」がある。
1728年(享保13年)に大阪で発刊された『料理網目調味抄』には「箱寿司に酢を注ぐ」との記述があり、これが「なれずし」の原型とされる。
この「なれずし」は魚の保存が主目的であり、飯は食材というよりは漬け材料として扱われる。
現代の「すし」は、自然な酸味が出るのを待たずに、飯の量を増やして酢を加えて作られたものである。
握り寿司が代表的であるが、江戸前寿司の原型である大阪の箱寿司、いなり寿司、押し寿司、ばら寿司などさまざまな形態が存在する。
また、魚介類と必ずしも組み合わせない巻き寿司や稲荷寿司などもある。さらに、米飯ではない材料を用いた卯の花寿司や蕎麦寿司などもある。
寿司の歴史と由来
『栽培植物と農耕の起源』(中尾佐助 1978)によれば、焼畑農耕文化の一環として、ラオスの山地民やボルネオの焼畑民族が関与していたとされる。
一方、『すしの本』(篠田統 1970)では、東南アジアの山地民が魚肉を保存する方法から寿司が発展したとされ、この方法は高地において魚を長期保存する手段として考案されたとされる。
また、『魚醤とナレズシの研究 モンスーン・アジアの食事文化』(石毛直道 & ケネス・ラドル 1990)では、東北タイやミャンマーなどの平野部で、水田地帯での稲作と共に魚介類の保存方法が発展し、後に寿司へと伝わったとしている。
中国では、「鮨」という字が紀元前5 – 3世紀に成立した辞典『爾雅』に登場する。
そこでは、「魚はこれを鮨という。肉はこれを醢という」との記述があり、篠田はこれを魚の塩辛と解釈している。
後漢の『説文解字』には、「鮺は魚の蔵(貯蔵形態)」であり、「䰼」と「鮺」は同じものとされる一方、「鮨」は魚の䏽醤(塩辛)だと区別されている。
篠田によれば、「鮺」がどのような保存食であったかは不明だが、10世紀の徐鍇の注では「今俗に鮓に作る」とされ、これが「鮓」の起源であると考えられる。
また、2世紀末に成立した『釈名』では、「鮓」は「葅」と解釈され、「塩と米で葅のように醸し、熟してから食べる」とされている。
しかし、3世紀頃に編まれた『広雅』では、「鮨」は「鮓」なりとして区別されず、東晋の郭璞による『爾雅注』も同様である。
日本においては、文献上初めて見られるのは『養老令』(718年)の「賦役令」であり、「鰒(アワビ)鮓」や「貽貝(イガイ)鮓」などが記述されている。
また、『正税帳』(729年-749年)にも言及がある。篠田統や石毛直道によれば、これらは外部から伝わったものであり、中国から稲作文化とともに九州に伝わった可能性があるとされる。
「鮓」の読み方は『新選字鏡』(899年-901年)で「酒志」、「鮨」の読み方は『倭名類聚抄』(931年-938年)で「須之」とされている。
日本の寿司の歴史
寿司は日本において1000年以上の歴史を持ち、奈良時代には既にその存在が知られていました。
平安時代の『延喜式』(927年)の「主計寮式」には、各地からの貢納品が記されており、その中には鮓や鮨といった言葉が多く見られます。
特に九州北部、四国北部、近畿、中部地区に多く見られ、関東以北ではあまり見られないのが特徴です。
この時代の寿司は、魚(または肉)を塩と飯で漬け込んで乳酸発酵させる「なれずし」と考えられています。
平安時代の寿司に関する記述は、『今昔物語集』にも見られます。
「鮨売りの女が酔いつぶれて、売り物の寿司桶の中に嘔吐してしまったので、あわててかき混ぜてごまかした」「三条中納言朝成は肥満に悩み、医師に減量法を尋ねたところ、『夏は水漬け飯、冬は湯漬け飯を召しあがればよい』と教えられた。そこで瓜の漬物や鮎の寿司をおかずに湯漬け飯を食べたが、食べる量があまりにも多いので結局痩せなかった」
これらの記述から、平安時代の寿司は、「嘔吐物を混ぜても気が付かないほど、臭いが強い」いわゆる「なれずし」であり、「寿司をおかずに湯漬け飯を食べた」ことから、飯部分を除去して食されていたことがうかがえます。
鎌倉時代以降、寿司は『沙石集』にも記述されるように、残り物の魚の加工品として登場し、米食が一般庶民に浸透する室町時代になって、「ナマナレ」の登場によって、飯と共に食べる習慣が生まれたようです。
篠田統によると、室町時代の『蜷川親元日記』(1465年-1485年)に見られる「生成(ナマナレ)」という言葉は、十分に発酵していない寿司(鮓)を指し、これは「漬け床」の飯と共に食べるものであるとされています。
また、酢を調味料として用いることに特徴があり、これが寿司に酢を用いる契機となったとされています。
日本の寿司の進化
時代が進むにつれて、寿司の発酵を早めるために様々な方法が採用され、即製化が進んでいきました。
酒や酒粕、糀を使用することもありましたが、特に1600年代からは酢を用いた寿司の例が増えてきました。
岡本保孝の著書『難波江』には、「松本善甫という医者が延宝年間(1673年-1680年)に酢を用いたすしを発明し、それを松本ずしという」という記述がありますが、日比野光敏によれば「松本ずし」に関する他の資料は見つかっておらず、延宝以前の料理書にも酢を使った寿司が存在するため、「発明者であるとは考えられない」としています。
いずれにしても、誰が発明したかはさておき、酢で酸味を調節する料理が誕生しました。
江戸前握り寿司の誕生
大阪の箱寿司が『料理網目調味抄』に記載されたその100年後の江戸、「妖術という身で握る鮓の飯」『俳風柳多留』(文政12年〈1829年〉、作句は1827年)が、握り寿司の文献的初出である。
握り寿司を創案したのは「與兵衛鮓」華屋與兵衛とも、「松の鮨(通称、本来の屋号はいさご鮨)」堺屋松五郎とも言われる。
『守貞謾稿』によれば、握り寿司が誕生すると、たちまち江戸っ子にもてはやされて市中にあふれ、江戸のみならず文政の末には関西にも「江戸鮓」を売る店ができた。
天保の末年(1844年)には稲荷寿司を売り歩く「振り売り」も現れたという。
この頃には巻き寿司も既に定着しており、江戸も末期、明治維新の足音も聞こえてこようかという時代になって、ようやく現代でもポピュラーな寿司が出揃った。
明治30年代(1897年-)頃から企業化した製氷のおかげで、寿司屋でも氷が手に入りやすくなり、明治の末あたりからは電気冷蔵庫を備える店も出てくる。
近海漁業の漁法や流通の進歩もあって、生鮮魚介を扱う環境が格段に良くなった。
江戸前握り寿司では、これまで酢〆にしたり醤油漬けにしたり、あるいは火を通したりしていた素材も、生のまま扱うことが次第に多くなっていく。種類も増え、大きかった握りも次第に小さくなり、現代の握り寿司と近い形へ変化し始めた時代である。
大正12年(1923年)の関東大震災により壊滅状態に陥った東京から寿司職人が離散し、江戸前寿司が日本全国に広まったとも言われる。
昭和初期まではメニューを寿司職人に任せる「おまかせ」が一般的な注文であり、職人が当日の市場にあった様々な魚を仕入れて提供していた。
戦後の寿司文化
第二次世界大戦直後、厳しい食料統制の中、1947年(昭和22年)に飲食営業緊急措置令が発令され、寿司店は表立って営業できなくなりました。
しかし、東京では寿司店の組合の有志が交渉に立ち上がり、1合の米と握り寿司10個(巻き寿司なら4本)を交換する委託加工として、正式に営業を認めさせることができました。
全国各地でもこれに習い、寿司店は江戸前寿司に統一されることとなりました。当時の職人の一部は、「取り締まりを逃れるために、ダミーの米を入れた袋を店頭に置いて営業したこともあった」と述懐しています。
戦後の高度経済成長期に入ると、衛生上の理由から屋台店はすでに廃止され、寿司店は高級な料理店としての地位を確立しました。
1960年代から1970年代にかけて、サラリーマンを題材とした漫画では、夜遅くまで外で飲み歩いた亭主が、妻の機嫌を取るために寿司の折り詰めを買って帰るシーンが描かれることもよくありました。
国鉄東海道本線の電車急行ではビュッフェで寿司コーナーが設置されていました。
以前の「おまかせ」ではなく、客が好みのメニューを注文することが一般的になりましたが、これによりマグロなどの人気魚への注文が集中し、寿司の画一化が進んだと指摘されています。
サーモンのネタは、ノルウェー政府が1986年に日本で生のサーモンを食べる文化がなかったことに着目し、生のサーモンを輸出する計画によって徐々に普及していきました。
マルハニチロが2023年に行った調査では、回転寿司のネタとしてサーモンが男女を問わず1位となり、12年連続で人気があることが示されました。
寿司の世界的広がり
長い鎖国が終わり、明治時代には多くの日本人が中南米や北米に移民し、各地で日本人コミュニティが形成されました。
1887年にアメリカ合衆国で最初の日本料理店「大和屋」がサンフランシスコで開店し、その後、ロサンゼルスの「見晴亭」や他の日本食レストランが続々と登場しました。
しかし、第二次世界大戦の影響で日系人コミュニティは収容所に送られ、これにより日本食レストランも衰退しました。
その後、日本の寿司文化を世界に広めるために、東京・青山大寿司総本店の大前錦次郎が活動しました。
彼は米国ワシントンD.C.での「全米桜祭り」や、世界初の英文での寿司の専門書の出版などを通じて、「Sushi」を世界に紹介しました。
戦後のリトル東京の寿司店は、ほとんどが1930年代に創業した稲荷寿司や巻き寿司、そして酢飯に魚を乗せた寿司を提供していました。
1962年には、共同貿易社長の金井紀年によってガラスのネタケースが海外に持ち込まれ、老舗日本料理店「川福」に本格的な「sushi bar」が開店しました。
これにより、「sushi bar」は次々と増え、1970年代には寿司ブームが起こりました。しかし、海藻を食べる習慣のない欧米人にとって、海苔は不慣れな食材でした。
そのため、「裏巻き」と呼ばれるスタイルが考案され、広まりました。また、「sushi bar」では各店が独自のアレンジを加えた料理も提供され、欧米では「sushi bar」が正統派の寿司店や寿司レストランを含む総称となっています。
ロサンゼルスで火がついた寿司ブームは、日本の経済的な影響もあり、アメリカを中心に世界中に広まりました。
1983年にはニューヨークの寿司店「初花(Hatsuhana)」が『ニューヨーク・タイムス』紙のレストラン評で最高の4つ星を獲得し、寿司店のイメージが高級化したことがわかります。
現在、寿司は日本食の代表的な食べ物の一つとして認知され、日本国外の多くの日本食レストランで提供されています。
特に北米では人気が高く、大都市だけでなく地方都市のスーパーマーケットでも寿司のパックや巻物が販売されています。
ベルリンでの寿司
回転寿司は、手軽に楽しめることやシステムの面白さから、海外でも人気を博していますが、文化の違いから「正しい」楽しみ方を求める日本人もいます。
カリフォルニアロール以外にも、世界各地で地元の食文化と融合したスシが誕生しています。メキシコでは「寿司タコス」「寿司ブリトー」、ハワイでは「ポキ寿司ボウル」、香港では魚や肉を避ける人向けの「フェイク寿司」などがあります。
タイでは、寿司レストランだけでなく、屋台でも寿司が販売されています。ここでは甘めの酢飯や、魚介類以外のネタとしてピータンが使われます。
世界各地の寿司レストランでは、日本人以外の経営や調理が増え、日本人が経営する寿司店は減少しています。
そのため、日本の伝統的な寿司とは異なる調理法の料理も「寿司」として提供されるようになりました。
例えば、寿司ではなく天ぷらや丼物を提供する店も「寿司屋」と名乗っています。
さらに、魚介類やご飯とは無関係な料理を「Sushi style」として提供する店も登場しました。
今では「SUSHI」という単語を海外の街で頻繁に見かけますが、本来の日本料理とは大きく異なるメニューを提供する店も多くあります。
2000年代に入ると、日本のインターネット掲示板などで国粋主義が高まりました。
農林水産省は日本食の評価を行う計画を立てましたが、これに対して批判的な声も上がりました。
そのため、認証制度の導入を止め、日本食の普及を目指すNPOの「日本食レストラン海外普及推進機構(JRO)」が推奨店を決定する方式を採用しました。
中国や香港、台湾、ロシアでも寿司ブームが起こりました。
これらの国では元々魚を生で食べる文化がなかったため、寿司愛好家が増えました。
しかし、これにより寿司の需要が増え、生物資源の枯渇が懸念されるようになりました。そのため、生態系にリスクを与えない方法で収穫された魚介類や増産可能な農産物を使用した「サステナブル寿司」の動きも始まりました。
創作寿司も広がっており、魚介類以外の食材や異なる調理法を取り入れたり、非伝統的なトッピングをしたりすることがあります。
寿司のイベント「WORLD SUSHI CUP JAPAN」では、こうした創作寿司の競技も行われています。
寿司の漢字の違いと由来
「すし」の語源は、「酢(す)」と「し」(味噌や醤油などの調味料)からなります。
元々は「酢し」と書かれ、これが時代とともに「すし」となりました。
「酢し」は、酢を使った味付けを含意しており、寿司の酢飯のことを指しています。寿司の起源は古く、酢飯と魚や海産物を組み合わせた料理が日本で生まれたことによると考えられています。
「寿司」と「鮨」の漢字の由来と違いは以下の通りです。
寿司(すし)
この表記は一般的であり、日常的な寿司の呼称として広く使われています。漢字「寿」は「長寿」や「幸福」などの意味があり、これに「司」がつけられて「幸福を司る」という意味になります。
「寿司」は、元々「酢し」と書いており、これは「酢(す)」を使用した「し」(味噌や醤油などの調味料)を指します。
寿司の語源については諸説ありますが、一般的には江戸時代に寿司が定着した際、酢飯と魚を組み合わせた料理が生まれたことによると考えられています。
「寿」は長寿や幸福を意味する漢字であり、「司」は管理や支配することを意味する漢字です。この言葉は、長寿と幸福を願う意味と、食材を管理し料理する職人の役割を示しています。
鮨(すし)
こちらも「すし」と読みますが、漢字表記が異なります。
この表記は古く、歴史的な文献にも見られますが、一般的ではありません。しかし、特定の料理店や商品名などで使われることもあります。
「鮨」は「魚」(魚介類)を意味する「魚」と、「酢」を意味する「酢」の二つの漢字からなります。
この表記は、元々は「酢し」から転じて「鮨」と書かれるようになりました。
まとめ
寿司(すし)と鮨(すし)は、日本の代表的な料理であり、生魚やシーフードを酢飯とともに食べるものです。以下にそれぞれの特徴や語源、使われる漢字についてまとめます。
寿司(すし)
特徴:寿司は、酢飯(すしめし)と呼ばれるご飯に生の魚やシーフード、野菜などを組み合わせた日本の伝統的な料理です。一般的には握り寿司が代表的ですが、他にも巻き寿司や押し寿司などの種類があります。
語源:「寿司」の語源は、「酢し」から来ています。元々は酢飯のことを指しており、「酢(す)」と「し(味噌や醤油などの調味料)」からなる「酢し」が転じて「寿司」となりました。
漢字:「寿司」という表記が一般的です。
鮨(すし)
特徴:「鮨」も寿司と同じく、酢飯に生の魚やシーフードを合わせた料理です。特に握り寿司を指すことが多いですが、一般的ではありません。
語源:「鮨」の語源は、「魚(さかな)」に、「飯(い)」を加えた「さかない」が変化したものとされています。これが転じて「鮨」となりました。
漢字:古くは「鮨」という表記が用いられていましたが、一般的ではありません。
両者ともに日本の伝統的な食文化であり、世界中で愛される料理となっています。