土偶と埴輪は違うものなの?

古代の土製焼き物である土偶と埴輪は、作られた時代や目的が異なり、関連性はありません。

土偶は縄文時代に製作され、最古のものは三重県で見つかった縄文時代初期のものです。

土偶には人や動物を模ったものがあり、特に女性像では乳房や臀部が強調されています。

また、完全な形のものは少なく、多くが手や足など一部が故意に壊れている状態で見つかります。そのため、出産や豊穣、悪魔払いなどの呪術的な目的で使用されたと考えられています。

一方、埴輪は古墳時代に作られ、円筒埴輪と形象埴輪に分けられます。

形象埴輪には人物や動物、器財や家を模ったものがあります。埴輪は古墳の周囲や上に配置され、最初は埋葬される人物の権威を示すためや、死者への捧げものとして使われましたが、5世紀以降は葬儀の様子を表現したものとなっていったと言われています。

土偶とは?

土偶とは、狭義においては、縄文時代の日本列島で作られた土でできた人形を指します。

この定義では、人型の像であれば神や精霊など霊的存在を模したものも含まれますが、人や人型以外の生物や非生物は含まれません。

例えば動物や道具をかたどったものは「土製品」と呼ばれ、「動物形土製品」(例:猪形土製品)、「○○形土製品」(例:鐸形土製品)などと区別されます。

しかし、より広い定義では、非生物も全てを「土偶」と呼び、そのために「人物土偶」「動物土偶」という呼称が用いられます。

また、古墳時代に作られた埴輪なども「埴輪土偶」と呼ばれていますが、これについては過去の呼称とされることもあります。

土偶の定義は曖昧であり、文化財指定時の名称さえ統一されていません。

ただし、動物や非生物を含めない定義が一般的です。これらの土偶は日本各地で発見されていますが、離れた島々からは見つかっていません。

最広義では、縄文時代や日本列島に限らず、世界各地の考古遺物を指しますが、狭義の曖昧さは最広義にも影響を及ぼします。

なお、石でできたものは岩偶もしくは石偶と呼ばれ、縄文時代のものも多く存在します。一方、木でできたものは木偶と呼ばれ、縄文時代の例はなく、弥生時代以降のものが知られています。

遮光器土偶とは?

遮光器土偶とは、縄文時代に作られた土偶の一種であり、一般的に「土偶」と聞くとこのタイプを思い浮かべる人も多いほど有名です。

その名前は、目の部分がイヌイットやエスキモーが雪中で使用する遮光器(スノーゴーグル)の形状を模していることに由来します(ただし、遮光器そのものを描いたものではなく、目の表現とされています)。

遮光器土偶は主に東北地方で発見され、縄文時代晩期のものが多く見られます。

また、北海道南部から関東・中部地方、そして近畿地方に至るまで、遮光器土偶を模倣した土偶が広く分布しています。

これらの土偶は、遮光器状の目だけでなく、大きな臀部や乳房、太ももなど、女性の形を強調しています。

さらに、胴部には模様が施され、朱色などで彩色されたものもあります。大きなものは中が空洞になっていることがありますが、これは焼く際に割れないようにするためのものだと考えられています。

これらの土偶は完全な形で見つかることはまれであり、足や腕などの一部が欠けたり、切断された状態で見つかることがよくあります。

これらの切断された部分には、接着剤としてアスファルトが使われていることもあり、修理されて再利用されていた可能性が考えられています。

これらの切断は、多産や豊穣を祈願する儀式の一環として行われたのではないかと考えられています。

土偶の起源を紹介

日本で知られる最古の土偶は、三重県と滋賀県から発見されたものであり、縄文時代の初期後半に当たります。

これらは小さく、やや厚みのある板状で、突起で頭と両腕が表現されています。顔や手足の表現は欠けていますが、乳房は明確に描かれています。

縄文時代の早い段階では、関東地方東部で逆三角形やくびれた形の土偶が現れ、後には東海地方まで広がり、それぞれ固有の形式を形成しました。

この時期には、板状の土偶が発展しましたが、その目的はまだはっきりとは分かっていません。

縄文時代の中期初頭になると、土偶は立体的になり、頭部や四肢の表現が明瞭になり、自立するようになりました。

この変化は時代を通じて最も顕著でしたが、実際には早い段階で表情豊かな土偶が出現しています。

例えば、千葉県の石揚遺跡から出土したものは、顔の表情が豊かで、扁平で円形の頭部に2〜6個の孔が開いています。

同様の表情豊かな土偶は、東海地方から関東地方にかけて広範囲に分布していました。しかし、時が経つにつれて新たな変化が見られるようになりました。

前期後葉には、宮城県糠塚貝塚から始まる表情のある土偶が登場しました。

それ以降、東北地方中部の土偶から、顔の表現がより明確になり、北陸地方や中部高地に広がりました。

そして、中期初頭には「立像土偶」に進化し始め、板状の胴体と円盤状の頭部、そして目・鼻・口が明確に表現されるようになりました。

この急速な変化は、個人的な目的から集団的な祭りに使用されるようになったためと考えられます。

つまり、縄文時代の社会において、土偶の役割が定着し始めたのです。

縄文時代後期に入ると、ハート形の土偶が現れました。

後期から晩期にかけて、関東から東北地方では、山形土偶やみみずく土偶、そして遮光器土偶などが多く作られました。

また、仮面をかぶった土偶も見られます。一方、九州以外の西日本では人型の土偶は珍しく、簡素な分銅形土偶が一般的でした。

縄文時代晩期になると、頭部が結髪したように見える結髪土偶が登場しました。

埴輪とは?

埴輪は、日本の古墳時代に特有の土器であり、一般的には土師器と呼ばれる素焼き土器に分類されます。

祭祀や魔除けなどのために、古墳の丘や造出(墳丘の周りの平坦地)に並べられました。これらは日本各地の古墳に見られます。

埴輪は3世紀後半から6世紀後半にかけて造られ、前方後円墳と共に姿を消しました。大きくは円筒埴輪と形象埴輪の2種類に分けられます。

円筒埴輪には、普通の円筒や朝顔形、鰭付円筒などがあります。これらは周提帯や墳丘の上、斜面に沿って配置されました。

形象埴輪は、家を模したものや器財、動物、人物などに分かれ、墳丘の上に立てられました。これらからは当時の衣服や武器、建築様式などを復元することができます。

埴輪は基本的に中空で、粘土を紐状にして積み上げて形を整えました。

時には別々に焼いた部品を組み合わせることもありました。

また、骨格を作って粘土を貼り付ける方法もありましたが、型を使用することはありませんでした。

赤色の顔料が塗布された埴輪が中心的でしたが、関東地方では様々な色彩が形象埴輪に施されました。

埴輪の起源を紹介

埴輪の起源は、吉備地方の墳丘墓に特殊器台や特殊壺が見られることから始まり、それらが円筒埴輪や壺形埴輪に発展しました。

3世紀後半には、最初の都月型円筒埴輪が出土しました。これらの分布は備中から近江まで広がっています。

埴輪の発見と同じ墳墓から出土した大陸製の三角縁神獣鏡との関係が注目されていますが、その関係については詳細は分かっていません。

前方後円墳の普及は、ヤマト王権の成立を示すものと見られています。また、『日本書紀』に登場する野見宿禰の記述が埴輪の始まりとされていますが、これは埴輪の考古学的な変遷と一致しないため、後世の土師氏による創作伝承である可能性が高いです。

古墳時代前期初頭には、吉備地方で円筒埴輪が現れ、円筒形や壺形、朝顔形などが見られました。

円筒埴輪は地面に置くだけでなく、穴に埋めるように変化しました。前期前葉には、家形埴輪や器財埴輪、鶏形埴輪などが登場し、墳頂中央に豪華な配置で置かれるようになりました。

古墳時代中期には、人物埴輪や馬、犬などの動物埴輪が現れました。また、埴輪の配置にも変化が現れ、外側に器財埴輪や家形埴輪が配置されるようになりました。

古墳時代後期には、畿内での埴輪の生産が減少しましたが、関東地方では依然として埴輪の生産が続きました。

特に埼玉県鴻巣市の生出塚埴輪窯跡は、東日本最大級の埴輪生産遺跡として知られています。

まとめ

土偶と埴輪は、古代日本の文化遺産であり、それぞれの時代や地域で造られた土製の人形や彫像です。

土偶は縄文時代に作られた土製の人形であり、祭祀や信仰の対象として用いられました。

土偶は主に日本列島各地で発見されており、人型の形態や動物を模したものなどさまざまな形状があります。

一般的には、粘土を成形して素焼きにし、身体の一部には彩色が施されたものもあります。また、土偶は最も狭義には人型のみを指す場合もありますが、より広い意味で

は動物や非生物を含むこともあります。

一方、埴輪は古墳時代に作られた素焼きの土器であり、主に古墳の墳丘や墳丘周辺に配置されました。

埴輪には円筒埴輪や形象埴輪などさまざまな形態があり、家形や動物、人物などを模したものがあります。

埴輪は祭祀や墓制に関連しており、時には豪華な配置で古墳に並べられました。埴輪は特に古墳時代前期から後期にかけて盛んに作られましたが、後期になると生産が減少しました。

土偶と埴輪は、古代日本の宗教や社会制度、生活様式などに関連しており、それぞれの時代や地域の文化や信仰を理解する上で重要な資料となっています。