京都の夏の風物詩である祇園祭は、八坂神社(祇園社)の祭礼です。
このお祭りは、山鉾町や八坂神社によって主催され、山鉾町の行事は特に重要な無形民俗文化財として指定されています。
山鉾行事は前祭(7月14日 – 16日)と後祭(7月21日 – 23日)に分かれ、宵山や山鉾巡行などが特に有名です。
一方、八坂神社主催の行事には神輿渡御や神輿洗いなどがあり、花傘連合会による花傘巡行もあります。
祇園祭は、京都を代表する祭りであり、日本の数々の三大祭りのひとつに数えられます。
名前の由来は、八坂神社がかつて祇園社と呼ばれていたことにあります。
牛頭天王が祇園精舎の守護神とされていたため、「祇園神」とも呼ばれ、これにちなんで祭礼名も「祇園御霊会」となりました。
明治維新による神仏分離令の際に、祭礼名は「祇園祭」に変更されましたが、「祇園」の名前自体は仏教由来です。
祇園祭の日程
祇園祭は、かつては旧暦(太陰太陽暦)の6月に行われていましたが、新暦(グレゴリオ暦・太陽暦)になってからは7月に行われるようになりました。
新暦への移行後も、何度か日程が変更されましたが、以下に示すのは2014年(平成26年)以降の後祭の日程です。
なお、開始時刻は変動することがあります。
祇園祭の歴史
祇園御霊会の起源は、863年(貞観5年)の疫病流行に遡ります。
この時、朝廷は神泉苑で初めて御霊会を執り行いました。
御霊会は、疫病や亡くなった人々の怨霊を鎮めるための祭りであり、疫病の流行が恨みを残したまま亡くなった人々の怨霊によるものと考えられていました。
その後も疫病が続いたため、牛頭天王を祀り、無病息災を祈願する御霊会が行われました。
富士山の大噴火や貞観地震などの自然災害が相次ぎ、全国的に地殻変動が起こりました。
この混乱の中で、卜部日良麿が全国の悪霊を祓うために神輿を送り、牛頭天王を祀る御霊会を執り行いました。
869年(貞観11年)のこの御霊会が祇園祭の起源とされ、その後数多くの年月を経て、2019年(令和元年)には祭りの1150周年を迎えるほど、長い歴史を誇ります。
この御霊会が行われた背景には、平安京の高温多湿の地域性や、人口の集中、上下水道の不備などによる感染症の流行がありました。
さらに、先に挙げた自然災害や藤原種継暗殺事件などが影響しています。
この祭りは、神道や仏教の儀式だけでなく、陰陽道や修験道の要素も含まれていました。
真夏に行われるようになったのは、当時上水道や冷蔵庫がなかったため、夏に感染症が流行し、多くの人々が亡くなったことが影響しています。
876年(貞観18年)には、播磨国広峯から牛頭天王が京都に遷座し、八坂神社の地に祀られるようになりました。
祇園社として祭られ、比叡山延暦寺に属する感神院として設立されました。
中世には、祇園社は延暦寺の末寺として機能し、延暦寺の洛中支配の拠点となりました。
比叡山の鎮守である日吉権現の山王祭が中止される際には、祇園御霊会も中止または延期されることが多かったです。
山鉾巡行の発展
祇園御霊会は、その初期から現代まで、祇園社の神輿渡御を中心に行われてきましたが、山鉾が巡行に加わるようになった具体的な時期ははっきりしていません。
古い形式の鉾は、今でも京都市東山区の粟田神社(感神院新宮・粟田天王宮)や京都周辺から滋賀県にかけて見られ、祇園御霊会の鉾もこれに似たものだったと考えられています。
現在の山鉾巡行の原型は、鎌倉時代末期の『花園天皇宸記』に記されたものです。
1321年(元亨元年)の条には、鉾を囲む「鉾衆」が風流な舞曲を演じる様子が描かれています。南北朝時代には、富裕な町人たちが華やかな舞踏を競い、さまざまな形式の儀式や芸能が行われました。
室町時代に入ると、京都の下京地区に商工業者の自治組織である両側町が形成され、各町が趣向を凝らした山鉾を製作して巡行するようになりました。
これまで単独で巡行していた鉾と、羯鼓舞を演じる稚児を乗せた屋台が合体し、現在見られるような鉾車が誕生しました。
さらに、室町時代中期には猿楽能の演目を模した「山」が加わり、今日の山鉾巡行の原型が完成したと考えられています。
応仁の乱による中断を経て、1500年(明応9年)に祇園会が再開されました。
この再開は、明応年間の災害や1498年(明応7年)の東海大地震・大津波による大災害が後押ししました。
再開にあたっては、室町幕府奉行衆の松田豊前守頼亮が過去の山鉾について調査し、祇園祭の再興に尽力しました。彼は祇園祭の再興に対する貢献を称えられ、山鉾の数と名称が固定されました。
1533年(天文2年)には、延暦寺側の訴えにより祇園社の祭礼が中止に追い込まれましたが、町衆は「神事がなくても山鉾巡行だけは行いたい」として山鉾行事の続行を主張しました。
天文法華一揆のさなかにも、山鉾巡行は行われました。このエピソードは、町衆の自治的性格を象徴する有名な話として知られています。
近世以降の祇園祭の展開
江戸時代に京都で発生した三大火災は、祇園祭にも大きな影響を与えました。
1708年(宝永5年)の宝永の大火では、山鉾がまだ比較的素朴な形式だったため、復興が比較的早かったです。
しかし、1788年(天明8年)の天明の大火では、函谷鉾の復興に50年以上かかりました。
その後、山鉾の復興は幕末の文化によって促進され、山鉾の大型化や装飾品の華美化が進みました。しかし、1826年(文政9年)の巡行中に鷹山が大雨に見舞われ、懸装品が破損したことから、以降巡行に参加しなくなりました。
幕末の禁門の変に伴う1864年(元治元年)の「どんどん焼け」は、山鉾町に大きな被害をもたらしました。
この災害で無事だったのはわずか数基で、その後の明治維新の混乱期に入ると、一部の山鉾は長期間にわたって巡行が途絶えました。
明治維新後、山鉾巡行を支えていた寄町制度が廃止され、祭りの存続が危ぶまれる時期を経て復興しました。
巡行コースの変更や、第二次世界大戦の影響での中断はありましたが、戦後は徐々に山鉾の復興が進み、1980年代には休み山が次々に復活しました。
1966年(昭和41年)から2013年(平成25年)までの間は前祭と後祭を統合した合同巡行が行われましたが、2014年(平成26年)から後祭も再開され、古式を保持する努力が続けられています。
明治時代の祇園祭はコレラの流行とも関連があり、1886年(明治19年)、1887年(明治20年)、1895年(明治28年)にはコレラの影響で祭りが延期されたことがありました。
コレラを克服し、日本を衛生管理の行き届いた文明国家としてアピールするため、様々な対策が取られました。
祇園祭のクライマックスは室町時代から山鉾巡行でしたが、現在では巡行の前夜祭である宵山に毎年40万人以上の人が集まるほどです。
第二次世界大戦後、京都市の中心部がドーナツ化した影響で、山鉾町の住民が減少しましたが、新たな取り組みにより保存会に加入する住民が増えています。
第二次世界大戦後の展開
1947年、長刀鉾と月鉾が戦後初めて建てられ、長刀鉾は四条寺町までの往復巡行を復活させます。
1948年には北観音山と船鉾も建てられ、同様の巡行が行われます。
そして、1949年には9基の山鉾が復活し、くじ引き式が戦後初めて行われます。また、鶏鉾と鯉山の懸装品が重要文化財に指定されます。
1950年には山鉾の数が16基まで増え、後祭巡行が戦後初めて行われます。1952年には当時の全ての山鉾の巡行が復活し、菊水鉾も88年ぶりに巡行に参加します。1953年には菊水鉾が本鉾で巡行します。
その後、1956年には前祭巡行のコースが変更され、有料観覧席も設置されます。
1958年からは八坂神社舞殿で綾傘鉾ゆかりの棒振り囃子が奉納されるようになります。
1960年には岩戸山が借金トラブルにより参加できなくなります。1961年には前祭のコースが変更されます。そして、1962年には山鉾29基が重要有形民俗文化財に指定されます。
1963年には保昌山が初めて車輪を付けて舁山として巡行します。
1966年からは後祭が前祭と合同され、後祭巡行が前祭巡行の直後に行われるようになります。同年には鈴鹿山が巡行に不参加となります。
1970年には祇園祭山鉾館が開設され、1972年には全ての舁山に車輪が付けられます。1977年には烏丸通の通過が困難になり、解散地点が変更されます。
その後も、1981年から蟷螂山、1985年から四条傘鉾が巡行に復帰します。
1996年からは傘鉾の巡行順がシード制となり、2001年からは宵山飾りの中止、2009年にはユネスコ無形文化遺産に登録されます。
2014年には後祭が復活し、2019年には祇園祭の創始1150年を迎えます。2022年には完全な形での各行事が行われます。
祇園祭の後祭の復活
1965年(昭和40年)まで行われていた後祭の巡行が、大船鉾の再建に伴い再び行われることになりました。
2012年(平成24年)になり、2014年(平成26年)の巡行から大船鉾を含めた後祭を再開する方針が決まりました。
ただし、実際の再開には警察や地元町会などとの調整が必要で、正式な再開の発表は遅れました。
2013年(平成25年)8月には、2014年(平成26年)の巡行から前祭と後祭に分かれて宵山や巡行を別日程で行うことが決まりました。
巡行コースは現在のコースとは逆のルートになりました。
これは、かつての後祭のコースが時計回りのルートであったため、それに合わせたものです。
ただし、現在のルートでは曳山の巡行が不可能な箇所があるため、将来的には新たなルートの検討が行われる可能性があります。
後祭の再開は、祭りを本来の形に戻すだけでなく、いくつかの問題の解決にも役立っています。
例えば、山鉾の数が増えたことで、巡行が長時間に及び、交通規制が長引いたり、巡行の終了後に有料観覧席に空席が目立つなどの問題がありました。
後祭の再開により、これらの問題の解消が期待されました。ただし、2014年(平成26年)の前祭の巡行では山鉾の数が減少し、巡行時間は増加しました。
また、宵山期間の人出も課題となっており、後祭の再開により人出の分散が期待されました。
2014年(平成26年)の後祭の人出は前祭に比べて少なかったものの、落ち着いた雰囲気が評価されました。
また、後祭の巡行は前祭よりも集客数が少なかったものの、それでもまずまずの数字でした。
ただし、2015年(平成27年)の後祭では天候や曜日の影響で人出が大幅に減少し、課題が残りました。その一方で、良い天候に恵まれた後祭の巡行は前年とほぼ同じくらいの人出を集め、安定した数字を記録しました。
祇園祭の見どころや各種行事について紹介
長刀鉾町稚児お千度
7月1日にその年の長刀鉾町稚児が初めて公式に八坂神社に参拝し、稚児に選ばれたことを奉告し、祭の無事を祈る。
本殿の斜め向かいにある「斎館」で身支度を整えた稚児と禿の3人は、9時45分頃には関係者らと本殿に入り、10時頃に神事が始まる。
稚児は13日の稚児社参の前で、正式に神の使いとなる前であるので、白塗りの化粧をしているものの、冠などは被っておらず頭髪が見えており、衣服も13日以降とは異なる。また、自分の足で歩く。
そのあと10時20分頃から一行は本殿前で2礼2拍手1礼の参拝を行ったあと、時計回りに3回本殿を回る「お千度」を行う。途中本殿裏と本殿前に至った時にそれぞれ2礼2拍手1礼の参拝を行う。
3回本殿を回っただけで「お千度」と呼ぶのは、かつては稚児は300人以上の人を従えて参拝したので、延べ千度回ったと解釈し「お千度」というのである。
ただし、現在は30人程度しか従えていないが、旧例に従って3周だけで「お千度」と称しており、「綾傘鉾稚児お千度」や「みやび会お千度」でも同様となっている(10時・八坂神社)。
くじ取り式
山鉾のその年の順番を決める儀式が「くじ取り式」です。
この神事は、応仁の乱後33年間中断した祇園祭を再興するために、室町時代の1500年(明応9年)に行われたとされています。
当時の侍所の役人であった松田豊前守頼亮の私宅で行われ、現在もこの伝統が続いています。
京都市長が松田頼亮の役を務め、祭りの順番を決定します。以前は六角堂で行われていましたが、1953年からは京都市役所の市会議場で行われています。
くじ引きは7月2日に行われます。まず前祭の順番が決まり、その後に後祭の順番が決定されます。
一般の人は往復はがきで申し込み、抽選に当選した人のみが見学できます。その後、山鉾町の人々はすぐに八坂神社に参拝し、順番が決まったことを報告します。
神輿洗い
神輿を清める神事が「神輿洗い」です。
これは鴨川の水で行われます。中御座が解かれた状態で、夕刻に四条大橋へ運び出されます。
祭りの前にある7月10日(先の神輿洗い)と後の7月28日(後の神輿洗い)の2回行われます。
この神輿洗いに関連する慣習に、「お迎え提灯」があります。
これは、町の人々が自主的に神輿の到着を祝う行列で、先の神輿洗いの日に行われますが、後の神輿洗いでは行われません。雨天時には大幅に省略されることもあります。
神輿洗いで担がれるのは中御座(三若)一基で、他の神輿ではありません。神幸祭では東御座(四若)を担ぐ四若神輿会が担当します。
18時から儀式が始まり、中御座は飾り付けされずに南楼門の外に置かれます。
19時頃に大松明が出発し、四条大橋まで往復して神社と四条大橋の間を清め、19時半頃に中御座は四条大橋に向かいます。
四条大橋では子供たちが提灯を持って迎え、神輿を揺らして鈴を鳴らします。
四条大橋の上で神職が神用水を振りかけ、周囲の人々に清めます。飛沫を浴びると厄除けになるとされています。
その後、中御座は八坂神社に戻ります。再び子供たちが提灯を持って迎え、境内を2周した後、舞殿に上げられて飾り付けが始まります。
後の神輿洗いでは「お迎え提灯」がなく、中御座はそのまま神輿庫に収められます。
稚児社参
長刀鉾稚児の社参では、稚児たちは10時頃に町会所を出発します。
稚児は馬に乗り、禿の2人は徒歩で八坂神社に向かいます。
一行の服装は、稚児や禿に赤い傘をさす人は白い水干姿で、先導役は浴衣姿です。
一行の最後には和装の稚児・禿の母親が続きます。八坂神社への参入は南楼門からで、南楼門前に到着した稚児たちは、本殿に正面入口から参入します。神事の後、稚児は五位少将・十万石大名の位と格式を授かります。
その後は南楼門前の「中村楼」で食事をし、ハイヤーに乗って宿舎に帰ります。
14時には久世駒形稚児の社参があります。
彼らは常盤新殿から身支度を整えて出発し、南楼門から境内に入ります。稚児は2人並んで参内し、14時20分から30分頃に本殿での神事の後、本殿を時計回りに3周する「お千度」が行われます。
その後、全員の集合写真を撮影し、「常盤新殿」に戻って行事が終了します。
なお、長刀鉾稚児は既に1日にお千度を済ませています。
鉾建て・山建て・曳き初め
山鉾や曳山は通常、各山鉾町が所有している蔵や、円山公園の「祇園祭山鉾館」に収蔵されています。
大きな鉾や曳山と小さな舁山では建て方が異なりますが、どちらも釘を使わずに縄だけで組み立てられます。
大きな鉾の組み立てには通常3日かかります。最初の日は基礎の組み立てが行われます。
2日目は基礎を横倒しにして、20メートル以上の高さのある真木や曳山の場合は高い松の木が取り付けられ、梃子の原理を利用して立てられます。
鉾の立て上げは昼前後に行われ、鉾によってはウィンチを使用したり、ロープを人力で引いたりします。
北観音山では観客にもロープを引かせて山を立てることがあります。
鉾には真木を取り付けた後に天王人形が取り付けられます。天王人形は布で覆われ、鉾が地上に上がってから布が取り外されます。曳き初めの後、鉾や曳山の前後に提灯が取り付けられ、祇園囃子が演奏されます。
鉾や曳山の建ては前祭の四条通・室町通の鉾は7月10日から、新町通の鉾や曳山は7月11日から始まります。後祭の鉾や曳山は7月18日から大船鉾の建てが、7月19日から曳き山の建てが始まります。
舁山の建ては鉾の基礎の組み立てと似ていますが、通常は半日で完成します。一部の山は前日の午前に建てられます。
橋弁慶山や八幡山などでは舁き初めが行われますが、山を飾り付けて舁くのはありません。橋弁慶山の舁き初めは関係者だけで行われますが、蟷螂山の舁き初めは観客も参加できます。
中之町御供
「古式一里塚松飾式」とも呼ばれる、7月14日の中之町の行事です。
14時ごろ、松原中之町町会所の奥にある小さな祠である「松原中之町八坂神社」を参拝する形で行われます。これは八坂神社の公式行事ではありません。
1955年(昭和30年)まで、前祭の巡行は松原通を通っていましたが、その際に長刀鉾の稚児たちは途中で休憩し、松原中之町の町会所にある祠を訪れていました。
後に巡行路が変わり、松原通を通らなくなったため、この行事は途絶えましたが、後に7月17日の巡行の日に中之町の人々が京都市役所前で山鉾の関係者全員に茶や菓子を振る舞う行事として再開されました。
現在は7月14日に、稚児や八坂神社、長刀鉾町の関係者が松原中之町町会所で神事を行います。
稚児たちは13時40分ごろにホテルを出発し、保昌山の会所を経由して町会所に到着します。
神事の後、参加者に薄茶が振る舞われます。神事が終わると、再びホテルに戻ります。
稚児が出発した後、町内の人々が祠を参拝し、一般の人々にも参拝が許されます。
かつては一般の人々にも薄茶が振る舞われましたが、現在は関係者だけが飲むことができます。この日の稚児や禿は和装で、赤い傘を差していますが、化粧は薄く、冠や帽子はかぶっていません。また、非公式の行事であるため、普通に地上を歩きます。
この日から3日間、稚児や禿は夕方に非公式に八坂神社を参拝し、同様の服装で地上を歩きます。
宵宮祭
この行事は遷霊祭とも呼ばれ、神の霊を神殿から神輿へ移す儀式です。
7月15日に行われ、午後7時45分ごろには神殿と神輿が置かれた舞殿の間に注連縄が巡らされ、神聖な境界が作られます。
神殿と舞殿の間には神官が通るためのゴザが敷かれます。午後7時50分ごろからは神殿内で神事が始まります。
雅楽の演奏とともに、宮司による祝詞や関係者による礼拝が行われた後、午後8時20分ごろから「遷御の儀」が執り行われます。
境内の照明が全て消され、本殿前は清浄な暗闇に包まれます。もちろん、街中の神社なので真っ暗ではありませんが、すぐに目が慣れます。
やがて本殿からかすかに琴の音色が聞こえ、神霊を運ぶ神官たちが舞殿に向かって進みます。
彼らの足元だけが小さな明かりで照らされます。
先導の神官は幣を振りながら「ぅおおおお」という低い声で警蹕の声を上げます。
神霊遷しは本殿と舞殿を3往復するのではなく、1度で3つの神輿の神霊を遷します。
舞殿上で別の神輿に移動するときや、最後に神官一同が本殿に戻る際も警蹕の声をあげます。
神官一同が本殿に戻ってしばらくすると照明が再び点灯され、宵宮祭のクライマックスとなります。最後に関係者や神官一同が神輿の正面から拝礼し、行事は終了します。
行事の終了と同時に一般の参拝者も神輿の正面から参拝できるようになります。
行事の前には、「照明が消されてからの写真撮影、ビデオ撮影、特にフラッシュの使用」は禁止されています。
また、7月24日の還幸祭でも、神霊を本殿に遷す際に10分ほど照明を消します。
祇園囃子の独特のリズムである「コンチキチン」が山鉾から聞こえ、その囃子は江戸時代から存在しています。また、山鉾の装飾も豪華であることが特筆されます。
山鉾の装飾は巡行の3日前から始まり、この期間を俗に「宵々々山」と呼びますが、正確には14日から16日の夕刻から始まります。
この期間は夜祭を意味する「宵山」という言葉で表されます。ただし、近年では14日の宵山の前日の夕刻から装飾が始まる場所も増えています。
2日前が宵々山(正確には15日の宵山)と呼ばれます。山鉾の周囲には提灯が取り付けられ、夜になると提灯が灯り、それは祇園祭の象徴的な光景となります。
宵山期間中は、昼間には各山鉾町の町会所で宝物が展示されます。
すべての山鉾の町会所や曳山のいわとやま、たかやま、ほこらのほうかほこは無料で見学できます。
町会所では山鉾の神体人形に因んだお守りやお札、粽が販売されています。町会所にはスタンプや朱印が置かれ、集める人も多いです。
町会所は表通りに面している場合もありますし、細い路地の奥にある場合もあります。町会所の入り口には赤い提灯が掲げられ、目印となっています。町会所には町の人々や関係者が集まります。
一部の山鉾町では、伝統的な行事が宵山期間中に行われます。
また、巡行中に行われる両傘鉾の棒振り踊りも宵山で披露されます。宵山期間中の夕方から夜にかけては露天商の夜店が出店し、一部の通りが歩行者天国となります。
すべての山鉾には朱印があり、すべての山鉾を回る人もいます。
朱印は無料で押印できる場合もありますが、押印料が必要な場合もあります。押印は係員が行うこともあれば、希望者が自ら行うこともあります。
宵山期間中、一部の旧家や商店では伝統的な家宝が展示され、この行事は「屏風祭」とも呼ばれます。
鉾・曳山の拝観
宵山期間中、北観音山を除く山鉾・曳山に一般の人々が鑑賞に乗ることができます。
ただし、長刀鉾や放下鉾では女性の搭乗が制限されており、女性は町会所の2階までの鑑賞となります。
また、喪中の人は搭乗を自粛するよう呼びかけられることもあります。
鑑賞できる期間は宵々々山から宵山の間が一般的ですが、一部の曳き初めの日の夜から搭乗できる山鉾もあります。
搭乗料金は、いくつかの山鉾では事前に決められた「鑑賞料」として徴収されますが、一部の山鉾では購入した商品やガイドブックを提示することでサービスとして搭乗できます。さらに、曳き初めに参加した人は無料で搭乗できる場合もあります。
四条通や室町通の山鉾は一般的に混雑しますが、新町通の曳山は比較的空いています。
山鉾巡行
祇園祭のクライマックス。7月17日の神幸祭では、神輿が町を巡り、7月24日の還幸祭では神社に戻る前に、町の人々が通りを清める儀式が行われる。
このために前祭と後祭の2つの行列が生まれた。当初は地域ごとに祭りを行っていたが、山鉾が登場し、各地域が贅を競い合うようになり、特に京都の町の裕福さを背景に、この行列はより壮大で豪華になった。
山鉾行列は、1966年以降は後祭も17日に統合されたが、2014年に再び分かれた。現在の山鉾の数は33基で、前祭の山鉾は9基、前祭の山は14基、後祭の山鉾は1基、後祭の山は9基である。
山鉾行列のコースは時代とともに大きく変化してきた。
1955年までは、前祭は四条烏丸を出発し、寺町通りから松原通りを経て烏丸まで巡行し、後祭は烏丸三条から寺町通りを経て四条烏丸まで巡行した。これが江戸時代からの伝統的なコースだった。
1956年から1960年の間、前祭は四条烏丸から寺町通りを北上し、河原町御池から左折して新町御池までのコースに大幅に変更された。
この変更の背景には、観光客向けの有料観覧席を京都市役所沿いに設置するという目的があった。
1961年からは、前祭は四条烏丸から河原町通りを北上し、河原町御池から左折して新町御池までのコースに変更された。
これは、寺町通りの狭さ(アーケード化)と観光客の増加による混雑の危険性が高まったため、幅の広い河原町通りを巡行することにしたためである。1966年には後祭も前祭と合流し、この行列コースが祇園祭の標準的なコースとなった。
2014年に前後祭が分離され、前祭はほぼ既定のコースを踏襲することになり、後祭は逆コース、つまり烏丸御池から出発し、河原町通りを経て四条河原町までのコースを巡行することになった。
合流した行列のため、後祭の代替行事として始められた花傘行列は、後祭と同時に開催され、八坂神社から始まり、四条寺町を右折し、寺町通りを通って御池通りを右折し、河原町御池から後祭の最後に連なって行進し、四条河原町から八坂神社へ戻るコースになった。
行列の日には、各山鉾の町では、展示されていた装飾品や神体人形を山鉾に取り付ける作業が行われる。出発前には、町の中で神事が行われたり記念撮影が行われたりします。
出発地点を公式に出発する時間の30分から1時間前には、多くの山鉾が町を出発し、ほとんどの場合、出発前には山鉾が町の家々に「挨拶」に回ります。
出発地点に到着する前に、山鉾は一旦バックして町内全体に挨拶し、その後出発地点に向かいます。出発地点手前では、くじ順に並び直しをします。
前祭の山鉾は、長刀鉾を先頭に9時に四条烏丸を出発し、午前中から昼過ぎにかけてコースを巡行します。
四条烏丸交差点では、長刀鉾への稚児の乗り込みが行われます。稚児は既に神の使いとなっており、地上を歩かないので、男性が肩に乗せて長刀鉾に梯子を使って乗り込みます。
四条堺町交差点では、くじ改めが行われます。京都市長役の奉行に対し、各山鉾町の代表者が7月2日に行われたくじ引き式で受け取ったくじ札を見せ、くじ順に巡行していることを確認します。
町行司は各山鉾町の代表として、格好良くくじ札を奉行に見せます。確認が終了すると、町行司は扇子を使って山鉾に通行しても良い合図を送ります。
四条麩屋町交差点では、稚児による斎竹(いみたけ)の注連縄切りが行われます。
稚児は太刀を使って注連縄を切断し、神域への山鉾の進入を許可します。太刀の使用には危険が伴うので、実際には大人が太刀を扱います。
稚児による注連縄切りは1956年から始まりましたが、古い文献に基づいて復活されたものです。
他にも、傘鉾の棒振り踊りなど見どころはたくさんありますが、最も注目すべき見どころは鉾の交差点での方向転換です。
鉾の車輪は方向転換が難しいため、路面に青竹を敷き、それに水を掛けて車輪を滑らせて向きを変えます。この作業は3回から4回繰り返して行われます。
長刀鉾の稚児は新町御池で鉾から降り、ここで公式の山鉾行列が終了し、各山鉾は解散して各町に戻ります。
舁山の一部は室町通りを南下しますが、背の高い鉾や曳山は必ず新町通りを通ります。新町通りには道路を横断する電線がないため、山鉾が通過するのに適しています。
神幸祭・還幸祭(神輿渡御)
八坂神社から召し出された大神輿3基と子供神輿が、各地の氏子町を通って移動する儀式です。
7月10日には鴨川で神輿洗いが行われ、その後、神輿は八坂神社の舞殿に安置されます。
7月15日の宵宮祭では神輿に御霊が移され、神幸祭が7月17日に行われます。
神輿はその後、還幸祭が行われる7月24日まで四条寺町の御旅所に滞在します。この儀式は974年に始まり、御旅所は朝廷から贈られたものです。また、東若御座神輿という子供神輿も参加します。
神幸祭は朝の雅な山鉾巡行とは対照的に、夕方以降に行われる神輿渡御は荒々しく勇壮で特徴的です。
大神輿3基を1000人以上の男たちが担ぎ、荒々しく動かす様子は圧巻です。このような神輿は通常「暴れ神輿」と呼ばれます。神社を出発した神輿は、楼門前で集結し、勇壮に担がれながら練り暴れます。
その後、別々のルートで御旅所に向かいます。
還幸祭では、神輿と神々が御旅所から各氏子町を通って八坂神社に戻る儀式です。
八坂神社の氏子地域全体を練り暴れながら神輿が移動し、最後に八坂神社での勇壮な練りを披露します。神輿が舞殿に安置されると、御霊遷しが行われ、静かに終了します。神輿はその後、神輿庫に収められます。
また、祇園祭の神輿を担ぐ際の掛け声は「わっしょい」ではなく、「ほいっと、ほいっと」です。慎重な場面では「よーさー」と変わります。
神輿を振らずに移動する際は「よいやーさっさ(中御座)」「よいやっさーじゃ(東御座、西御座)」などの掛け声が使われます。振る際には、「よーいとせーの チャチャチャ×3」(中御座)、「よーさの チャチャチャ(拍手3回)×3、ヨー!」(東御座、西御座)の掛け声で手締めを行います。
花傘巡行
1966年に後祭の山鉾巡行が7月17日に統合された後、代替として始められた行事です。
約1000人の行列が参加します。子供神輿が先頭に立ち、古い形態の山鉾を現代に再現した花傘(傘鉾)や古典芸能の獅子舞、鷺舞、田楽、万灯踊りなどが行われます。
また、子供太鼓、馬長(うまおさ)稚児、児武者(こむしゃ)など多くの子供たちや舞妓、芸妓、そして「ミスきもの」や花笠娘などの女性も参加します。
鷺舞や舞・芸妓は八坂神社に到着後、芸能を奉納します。
八坂神社の氏子地域には4つの花街がありますが、そのうち2つが交代で参加します。西暦の奇数年は先斗町が歌舞伎踊りと祇園東が小町踊りを、偶数年は宮川町がコンチキ音頭と祇園甲部が雀踊りを奉納します。
京都織物卸商業組合を中心に、八坂神社の氏子地域にある4つの花街のお茶屋組合、各種行事の保存会、八坂神社の諸組織、山鉾保存会などが協力して、「花笠連合会」を結成し、この行事を行っています。
最初の巡行コースは八坂神社から四条河原町、河原町御池、寺町御池、四条寺町を経て、八坂神社に戻るルートでした。
2014年から後祭の山鉾巡行が復活した後も、花傘巡行は続けられ、一部では後祭山鉾巡行の後に連続して行われるように、ルートが逆に変更されました。
新しいコースは八坂神社から四条寺町、寺町御池、河原町御池、四条河原町を経て、八坂神社に戻ります。
寺町御池から四条河原町までは後祭山鉾巡行の後に続けて行われます。
2018年の花傘巡行は記録的な猛暑のため、子供が多数参加していることから熱中症の危険性を考慮して中止されました。
これは猛暑のための中止が初めてでした。2020年から2022年までは新型コロナウイルス感染症の影響で中止されました。
2023年に復活した際には、巡行ルートが下京中学校成徳学舎をスタートし、高辻通、烏丸通、四条通の片道ルートに変更されました。
まとめ
祇園祭は、京都市の八坂神社で毎年7月に行われる日本最大規模の祭りです。
起源と歴史
祇園祭は、平安時代初期に疫病を鎮めるために始まったとされています。
八坂神社の神々に感謝を捧げ、疫病を鎮めるために始められた祭りが、やがて祇園祭として発展しました。
期間
祇園祭は7月1日から7月31日までの1か月間にわたって行われますが、特に7月17日の前祭と7月24日の後祭が祭りの中心です。
前祭(山鉾巡行)
7月1日から7月15日までの間に、各町内で山鉾が巡行されます。山鉾は装飾された屋台で、神事や祭りの行列を行います。
本祭(神幸祭・還幸祭)
7月17日に前祭のクライマックスとして、神幸祭が行われます。神輿が町を巡行し、神々の加護を求める行事です。また、7月24日には還幸祭が行われ、神輿が八坂神社に戻ります。
花傘巡行
後祭の山鉾巡行が7月17日に統合された後、1966年に始まった行事です。花傘や古典芸能が披露され、子供たちも参加します。
参加者と見どころ
祇園祭には多くの参加者がおり、山鉾を担ぐ人々や衣装を着た舞妓・芸妓、子供たちの姿が見られます。また、屋台や山鉾の豪華な装飾、伝統的な芸能の奉納などが見どころです。
祇園祭の意義
祇園祭は、京都の夏の風物詩であり、伝統や文化を守り続ける重要な行事です。また、地域の結束や神々への信仰を示す大切な祭りでもあります。
祇園祭は、日本の伝統的な祭りの中でも特に格式が高く、多くの人々が訪れる一大イベントです。その豪華な装飾や格式ある行事は、日本の文化や歴史を象徴するものとして、世界中から注目されています。