「五里霧中」は「ごりむちゅう」と読み、事情や手掛かりがつかめず、どう進めばよいのか分からない状態を表す言葉です。
深い霧に包まれて、進む方向を見失ったような状態をたとえています。
由来は、古代中国の歴史書『後漢書』に記された張楷という人物の逸話です。
張楷は五里にわたる霧を起こせたと伝えられ、その術を学ぼうとした裴優は、後に霧を利用して罪を犯しました。
現在の意味からは想像しにくい、不思議な術と事件が結び付いた故事です。
ここでは「五里霧中」の意味や使い方だけでなく、原典に書かれている張楷の人物像、裴優の事件、原文から現在の四字熟語が成立した過程まで紹介します。
「五里霧中」の意味・読み方・使い方
読み方と意味
「五里霧中」の読み方は「ごりむちゅう」です。
次のような状態を表します。
- 事情が分からず、判断できない状態
- 手掛かりがなく、方針や見通しを立てられない状態
- どちらへ進めばよいのか分からず、手探りになっている状態
単に難しい問題に直面しているだけでなく、判断に必要な情報や手掛かりそのものが不足している場面で使うのが自然です。
多くの場合、困惑や不安を伴う否定的な表現として用いられます。
ただし、「五里霧中のまま調査を始めた」のように、見通しが立たない中でも行動している様子を表すこともできます。
「五里霧中」を使った例文
- 前任者が資料を残しておらず、新しい担当者は五里霧中の状態から仕事を始めることになりました。
- 不具合の原因を示す記録がなく、調査はしばらく五里霧中でした。
- 証言の内容が食い違い、事件の真相は依然として五里霧中です。
- 初めて扱う分野だったため、当初は五里霧中でしたが、専門家の助言で少しずつ方針が見えてきました。
「五里夢中」と書くのは誤り
「五里霧中」を「五里夢中」と書くのは誤りです。
ここで使われているのは、何かに熱中する「夢中」ではなく、霧の中を意味する「霧中」です。
由来となった張楷の「五里霧」を覚えておくと、書き間違いを防ぎやすくなります。
なお、言葉の区切りは「五里・霧中」ではなく、「五里霧・中」と考えると由来が分かりやすくなります。
広い範囲を覆う「五里霧」の中にいる、という組み立てです。
『後漢書』に登場する張楷はどのような人物か
張楷は多くの人が教えを求めた学者だった
「五里霧中」の由来は、南朝宋の范曄が編纂した歴史書『後漢書』巻三十六にあります。
辞書では一般に「張楷伝」と呼ばれますが、巻三十六の構成では張霸の伝記に続き、その子である張楷の事績が記されています。
張楷は字を公超といい、『春秋公羊伝』の一学派である厳氏の学問や、『古文尚書』に通じていました。
『後漢書』によると、張楷のもとには常に百人ほどの門人がいました。
若い学者だけでなく、父の世代に当たる名高い儒学者まで訪れ、教えを求めたとされています。
張楷は不思議な術だけで知られた人物ではありません。
当時の人々から尊敬を集めた学者であり、教育者だったのです。
人が集まり過ぎることを嫌い、何度も居場所を変えた
張楷の名声が高まると、その家の前は訪問者の車馬で埋まるほどになりました。
人の往来から利益を得ようとして、近くに宿泊施設を建てる者まで現れます。
しかし、張楷はそのようなにぎわいを嫌い、場所を移しました。
家は貧しく、驢馬の車で県へ薬を売りに行き、食べる分が得られると故郷へ帰る暮らしをしていたと『後漢書』は伝えています。
官職に推薦されても就任せず、やがて弘農の山中に隠れました。
それでも学ぶ人々が後を追って集まり、張楷の住居の周辺は市のようになったため、華陰山の南には「公超市」と呼ばれる場所ができたといいます。
「公超」は張楷の字です。
張楷が富や官位を求めなかったにもかかわらず、人々の集まる場所が自然に生まれたという記述から、その評判の高さが分かります。
皇帝から招かれても官職に就かなかった
張楷は中央の有力な役所から何度も招かれ、賢良方正にも推挙されましたが、応じませんでした。
後漢の順帝は漢安元年(142年)、河南尹に詔を下し、礼を尽くして張楷を送り出すよう命じています。
それでも張楷は病気を理由に出仕しませんでした。
こうした経歴を見ると、張楷は世間との関わりを完全に断った人物というより、学問を教えながらも、権力や名声から距離を置こうとした人物だったと考えられます。
張楷の「五里霧」と裴優が起こした事件
原典には「五里霧中」ではなく「五里霧」とある
『後漢書』は張楷について、次のように記しています。
性好道術、能作五里霧。
現代語にすると、「生来、道術を好み、五里にわたる霧を起こすことができた」という意味です。
辞書では「五里四方を覆う霧」と説明されることが多く、この霧が「五里霧中」の直接の由来になりました。
ただし、原文にあるのは「五里霧」であり、「五里霧中」という四字がそのまま書かれているわけではありません。
また、この「里」は古代中国の距離の単位です。
時代や地域によって長さが異なるため、日本で近代まで使われた一里を当てはめて、単純に約二十キロメートルの霧だったと計算するのは適切ではありません。
この故事では、正確な換算距離よりも、辺り一帯を覆って方角が分からなくなるほど広い霧だったという点が重要です。
三里霧を起こした裴優が張楷へ弟子入りを求めた
当時、関西の裴優という人物も、三里にわたる霧を起こせたとされています。
裴優は自分の術が張楷に及ばないと考え、弟子入りして学ぼうとしました。
ところが、張楷は裴優を避け、会おうとしませんでした。
原典には張楷が拒んだ理由まで書かれていません。
後の事件を知っていたかのように説明したり、裴優の人柄を見抜いていたと断定したりするのは、史料にない想像です。
確認できるのは、裴優が学ぼうとしたことと、張楷が会わなかったことまでです。
裴優の犯罪によって張楷も投獄された
桓帝が即位した後、裴優は霧を起こして賊の行為に及びました。
事件が発覚して取り調べを受けると、裴優は張楷から術を学んだと供述します。
実際には張楷は弟子入りを拒んでいましたが、この供述によって張楷も連座し、廷尉の獄につながれました。
張楷は二年に及ぶ獄中生活でも経書を唱え、『尚書』の注釈を作ったと記されています。
その後、事件との関係を裏付ける事実がないとして釈放され、家へ戻りました。
建和三年(149年)には、朝廷が座って乗れる安車を用意し、礼を尽くして再び招きましたが、張楷は重い病気を理由に応じませんでした。
七十歳で生涯を終えたと伝えられています。
霧を起こす術は史実として証明されたものではない
『後漢書』は、張楷と裴優が広い範囲に霧を起こせたと記録しています。
しかし、歴史書に記載があることと、超自然的な術が実際に存在したことは分けて考える必要があります。
『後漢書』を編纂した范曄は398年から445年の人物で、張楷が生きた後漢の時代から隔たりがあります。
したがって、張楷は『後漢書』に事績を残す歴史上の人物ですが、五里霧の術については、当時伝えられていた逸話として扱うのが適切です。
故事成語の由来を紹介する場合も、「張楷が実際に気象を操った」と断定せず、「『後漢書』にはそのように記されている」「五里霧を起こせたと伝えられる」と表現する必要があります。
「五里霧」から「五里霧中」へ変化した経緯
霧を起こす側から、霧の中で迷う側へ視点が変わった
原典の張楷は、五里霧を「起こす側」です。
ところが、現在の「五里霧中」は、その霧の「中にいる側」の状態を表します。
辺り一帯が深い霧で覆われれば、前後左右を見分けられず、どちらへ進めばよいのか分かりません。
そこから、目に見える霧だけでなく、事情が分からない、判断材料がない、方針を決められないという抽象的な迷いを表すようになりました。
つまり、現在の意味は張楷の生き方や裴優の犯罪を教訓にしたものではありません。
張楷の「五里霧」が作り出す、何も見通せない状況を比喩として用いた言葉です。
「如堕五里霧中」という形でも使われた
中国語には「如堕五里霧中」という表現があり、「五里霧の中へ落ちたようだ」という意味です。
台湾教育部の『重編国語辞典修訂本』では、物事の真相が見えず、ぼんやりして手掛かりをつかめない状態のたとえとして説明されています。
日本語では「五里霧中」の四字で定着し、現在では「五里霧中に陥る」「五里霧中の状態」「五里霧中で進める」などの形で使われます。
日本では少なくとも江戸時代に用例がある
『精選版 日本国語大辞典』は、日本語の「五里霧中」の早い用例として、元禄十三年(1700年)の俳諧資料『三上吟』を挙げています。
このことから、少なくとも江戸時代には、日本でも「五里霧中」という形が使われていたことが確認できます。
さらに、夏目漱石が大正五年(1916年)に発表した小説『明暗』にも、意味が分からないまま「五里霧中に彷徨していた」という用例があります。
古代中国の不思議な霧の逸話が、日本では近世から近代の文章にも受け継がれ、現在の日常語になったのです。
「五里霧中」と似た言葉の違い
「暗中模索」は分からない中で方法を探す行動に重点がある
「暗中模索」は、手掛かりのない状態で、さまざまな方法を試しながら解決策を探すことです。
「五里霧中」が見通しの立たない「状態」に重点を置くのに対し、「暗中模索」はその状態で答えを探す「行動」に重点があります。
例えば、「原因が分からず五里霧中だったが、暗中模索を続けて解決の糸口を見つけた」と使い分けられます。
「一寸先は闇」は先に何が起こるか分からないことを表す
「一寸先は闇」は、ごく近い将来であっても何が起こるか予測できないことを表します。
「五里霧中」は、現在の事情や進むべき方向が分からない状態です。
将来の予測不能を強調するのか、現在の判断材料の不足を強調するのかという違いがあります。
「雲をつかむよう」は話が曖昧で捉えにくいことを表す
「雲をつかむよう」は、話や計画が漠然としていて、実体や要点を捉えにくい様子を表します。
「五里霧中」のように、本人が進む方向を見失って困っているとは限りません。
話の曖昧さを指摘するなら「雲をつかむよう」、情報不足による迷いを表すなら「五里霧中」が適しています。
「五里霧中」に関するFAQ
『後漢書』に「五里霧中」という言葉がそのまま載っていますか?
いいえ、原文に記されているのは「性好道術、能作五里霧」という一節です。
「五里霧中」は、この「五里霧」の中にいるというイメージから成立した表現です。
「五里」は現在の距離で何キロメートルですか?
古代中国の「里」は、時代や地域によって実際の長さが異なります。
そのため、日本の一里を基準にして約二十キロメートルと説明するのは適切ではありません。
辞書では「五里四方の霧」や「五里にわたる霧」と説明されますが、故事を理解するうえでは、方角を失うほど広い霧という意味を押さえれば十分です。
張楷は裴優へ霧の術を教えたのですか?
『後漢書』によると、張楷は教えを求めた裴優を避け、会おうとしませんでした。
裴優は取り調べで張楷から学んだと供述しましたが、張楷と事件との関係は立証されず、二年後に釈放されています。
張楷が霧を起こした話は史実ですか?
『後漢書』に記載されている故事ですが、超自然的な術が実在したことを証明するものではありません。
張楷という人物の事績と、五里霧を起こしたという伝承を区別して読む必要があります。
まとめ
五里霧中は「五里霧」の中で方向を失うイメージから生まれた
「五里霧中」は、事情や手掛かりがつかめず、判断や方針を決められない状態を表す故事成語です。
「五里夢中」ではなく、深い霧を表す「五里霧中」と書きます。
由来となった『後漢書』の張楷は、多くの人が教えを求めた学者であり、官職への招きを繰り返し断った人物でした。
一方で、五里にわたる霧を起こせたとも伝えられ、その術を求めた裴優の犯罪によって二年間投獄されることになります。
原典にある表現は「五里霧」であり、現在の四字熟語は、その広い霧の中で方角を失うイメージから成立しました。
不思議な術そのものを史実と断定せず、歴史書に残された伝承と、そこから生まれた比喩表現を分けて理解することが大切です。


