広島県の郷土料理広島菜漬けのおにぎりとは?

菜漬けのおにぎりの主な伝承地域は広島県全域です。主な使用食材は、ご飯、広島菜漬けになります。

広島菜漬けで包まれたおにぎりです。広島菜はアブラナ科の白菜の一種で、繊維が少なく柔らかい特徴があります。

浅漬けにすると、シャキシャキした食感とともに、ほんのりとした辛さが楽しめます。

9月に種をまくと、12月には成長し、霜によって風味が増します。

この菜の栽培は、江戸時代の参勤交代の際に京都から種を持ち帰ったことに起因し、年配の方々の中には「京菜」と呼ぶ人も多いことから、京都の「壬生菜」がそのルーツであるとも考えられています。

茎の形から「平茎」とも称され、「広島菜」という名称は昭和8年に付けられました。

広島市安佐南区の川内地区は水はけが良く、古くから広島菜が栽培されています。

この地域特有の野菜は、長野県の野沢菜や九州の高菜とともに、日本の三大漬菜の一つに数えられています。

また、広島には、かきを提供する「かき船」という飲食店があり、広島菜もその食材として利用されるようになりました。戦後は贈答品としても重宝され、栽培が広島市以外に広がることで、重要な特産品となっています。

菜漬けのおにぎりは特定の行事に限らず、県民に親しまれた日常の食べ物として楽しまれています。お弁当などにもよく使われます。

菜漬けのおにぎりの作り方は、具入りのおにぎりに、3~4cmに切った広島菜漬けを巻きます。

また、主な産地である安佐南区では「餅菜」として雑煮の具にも利用されます。古漬けはお茶漬けとしても楽しめますし、広島菜漬けは刻んでふりかけにしたり、パスタなどに加えたりすることもあります。

広島菜の名前は全国的に知られるようになり、コンビニのおにぎりにも使用されるようになっています。地元ではスーパーやお土産屋、産地直売所などで販売されています。

広島菜漬けのおにぎりの作り方と材料

材料(5人分)

米:500g
広島菜漬け:15枚
【具】梅:適量
【具】昆布:適量
【具】かつお:適量

作り方

1:米を炊きます。

2:具材を用意します。梅、昆布、かつおなどを使います。

3:広島菜漬けを3〜4cmの大きさにカットします。

4:具を詰めておにぎりを作り、その上に広島菜漬けを巻きつけます。

広島菜とは?

広島菜(ひろしまな)は、広島県で生産されるアブラナ科の野菜で、白菜の一種です。主に広島菜漬けとして利用され、特に漬物として親しまれています。また、高菜や野沢菜とともに、日本の三大漬菜の一つに数えられています。

「広島菜」という名称は、1933年(昭和8年)に広島市猿楽町(現在の大手町)にある広島県産業奨励館(現在の原爆ドーム)で展示された際に広島県によって名付けられたとされています。ただし、大正4年(1915年)の読売新聞の記事には「廣島菜」との記載もあります。

広島菜は主に広島市の北部で栽培されており、生産量が少ないため全国的な知名度は低めですが、広島菜漬けは海のカキと並ぶ広島の特産品の一つとして地域ブランドに指定されています。緑鮮やかな色合いで、繊維が少なくシャキシャキとした食感があり、独特の辛みが特徴です。ご飯との相性も抜群です。

通常、1株は1.5〜3kgほどの重さがあり、葉は大きく幅広です。9月に種をまくと、12月には十分に成長し、霜によって身が引き締まり、味わいが増します。耐暑性が弱く、低温に敏感なため、栽培は主に秋に行われ、年末に収穫される露地栽培が中心です。立型と開張型の二つの形状があり、それぞれに多くの品種や系統があります。

広島菜は内婚弱性が強く、過度の純化が進むと種子の収量が減少するため、種の保存時にはある程度の変異を持たせた系統の維持が重要です。

広島菜の歴史

広島菜の起源についてはさまざまな説があります。コトバンクや広島県の公式サイトによれば、慶長年間に広島藩主が参勤交代の際、同行した観音村(現広島市西区観音町)の住人が江戸から帰る途中に京都の西本願寺を訪れ、観音寺白菜を持ち帰って栽培したのが始まりとされています。

その後、明治時代に川内村(現広島市安佐南区)の木原才次が、従来の京菜と交配を重ねて現在の広島菜の原型を作り出したと考えられています。

広島菜が広まったのは、大阪で営業していた広島牡蠣船で提供されたことがきっかけとも言われています。

戦後には、竹原市出身の池田勇人が故郷の特産品を推奨し、広島菜漬を全国に広めたという説もあります。

1960年代の経済成長期には、農協が川内産の広島菜の漬物を贈答品として販売し、百貨店でも取り扱われるようになりました。

その結果、広島菜はカキと共に広島の冬の代表的な特産品として知られるようになりました。

日本図書センターが発行した『全国名産大事典』によれば、「明治の初めに安佐郡川内村の木原佐市が京都を訪れた際、寺院の菜園から京菜の種を密かに持ち帰ったことが始まり」と記載されています。

この説も広く受け入れられています。

さらに、『全国名産大事典』では、京菜は立ち茎で背が高いため漬物としては全体が漬からないという欠点があったため、木原が平茎という幅広で平らな品種を改良したと説明されています。

「広島菜」という名称は、1933年に広島県によって付けられたとされています。この地域は、太田川の腐植土を含む土壌や温暖な気候に恵まれているため、京菜を超える品質のものができるとされています。

広島銀行が提供する「カレントひろしま」という地域経済誌には、1990年4月号で「ひろしまの食文化No.7 広島菜(下)」という特集が組まれており、山陽女子短期大学の講師・神田三亀男は、明治初期に川内村の青年・木原佐市が本願寺参詣の際に母本を入手し、その後10年以上にわたって品質改良に努めて広島菜を作り出したと記述しています。

木原は1866年生まれで、1914年に亡くなりました。地元では評判の農家であり、周囲の畑で広島菜を多く栽培し、改良に尽力していたと言われています。

商才にも恵まれ、明治35年(1902年)から明治40年(1907年)頃に「川内菜」と名付けて採種栽培や漬物生産を手がけていたようです。

「広島菜」という名称が普及する前には「川内菜」と呼ばれていたと考えられていますが、広がりは少なく、昭和8年に広島県によって「広島菜」と名付けられる前は「広島の菜っ葉漬け」や「京菜漬け」などと呼ばれていたようです。

京都のお寺から伝えられた説が有力ですが、他には平安時代に平清盛が厳島で賞味したという伝説もあります。

広島の年配者の中には「京菜」と呼ぶ人も多く、ルーツは京都の「壬生菜」ではないかという見解もあります。

また、明治初期には瀬戸内海を通じて京阪地方への出荷が行われ、関西でも知られるようになりました。

1899年(明治32年)の「農事調査第四報」によると、安佐郡の川内・三川・緑井村(現在の広島市安佐南区)や御調郡向島西村(現在の尾道市向島町)などが広島菜の主産地として挙げられています。

当時、尾道の向島での広島菜の生産が盛んで、船舶の需要や京阪地方への出荷が行われていたと考えられています。広島菜漬は、農家が自家製の漬け込みを行い、市場に出荷販売していました。

専門の漬物製造業者による本格的な広島菜漬の製造販売は大正時代に始まり、上田兼一などによって行われました。

県内業者が全国向けに特産品として名称を統一したのは昭和初期で、1933年に広島県産業奨励館で正式に命名されたことで一般化しました。

1961年3月6日の読売新聞の夕刊には、「高菜の変種で1メートル近くなる。

広島県安佐郡が主産地だが、東京で広島菜と称される菜っ葉は、地元ではキョウナと呼ばれ、東京で言うキョウナはミズナであるためややこしい」との記載も見られます。

まとめ

広島菜のおにぎりは、広島県の特産品である広島菜を使用した、風味豊かで食べ応えのあるおにぎりです。

広島菜はアブラナ科の野菜で、独特の辛味とシャキシャキとした食感が特徴。漬物としても人気があり、広島県内では家庭の食卓にもよく登場します。この広島菜を具材に使ったおにぎりは、地元の人々に愛されている一品です。

おにぎりを作る際には、まず、広島菜を細かく刻みます。次に、ご飯を炊き、適度に冷ましてから、手に水をつけてご飯を握り、具材として刻んだ広島菜を中心に包み込みます。

好みに応じて、梅干しや昆布、かつおなどの具を加えると、さらに味わい深くなります。広島菜の鮮やかな緑色が見えるおにぎりは、見た目にも美しく、食欲をそそります。

広島菜のおにぎりは、軽食やお弁当としても重宝され、特にお花見やピクニックなどのシーンで人気です。

冷やしても美味しいため、作り置きにも適しており、忙しい日のランチにもぴったりです。また、広島の名物として観光客にも親しまれており、地元の特産品を味わう良い機会となります。

広島菜のピリッとした辛味と、もっちりとしたご飯が絶妙にマッチし、一口食べるごとに広島の風味が広がります。このシンプルながらも深い味わいの広島菜おにぎりは、広島の食文化を感じさせる、ぜひ一度味わってみたい逸品です。