「桃の節句」は、旧暦の3月3日(現在の暦で4月頃)に桃の花が咲く季節に行われていましたが、明治時代以降は新暦の3月3日に定着しました。しかし、新暦の3月3日には桃の花がまだ咲いていないため、桃の造花を使うことが一般的です。
また、他の節句と同様に、新暦の4月3日に祝う地域も存在します。これは、3月3日が農作業で忙しい時期と重なるため、時期を遅らせて行う習慣です。
なお、江戸時代には武家社会で雛祭りなど五つの節句が公式な行事として行われていましたが、明治の王政復古で朝廷の祭祀が復興した際、これらの行事は廃止されました。
戦後に制定された祝日法では、端午の節句が「こどもの日」として祝日に定められましたが、他の節句は祝日とはされていません。
桃の節句とひな祭りとの違いとは?
「桃の節句」と「ひな祭り」は、いずれも3月3日の祝いごとを指し、大きな違いはなく、呼び名の違いにすぎません。
ただ、それぞれの起源をさかのぼると、桃の節句のもととなった「上巳」には、川で身を清め、厄を祓う習わしがあったとされています。
一方で、ひな祭りは、日本の特定地域で行われていた流し雛(子どもの健康を願って、紙で作られた人形を川に流す儀式)が起源とも言われています。
また、桃の花には魔除けや厄除けの力があるという言い伝えもあります。
つまり、「桃の節句」と「ひな祭り」はともに、桃の花が咲く頃に、子どもの健康と成長を願う行事として、長年にわたり続いてきた風習なのです。
雛祭りについて紹介
ひな祭りは3月3日に行われる女の子の健康と幸せを願う行事で、ひな人形や白酒、菱餅、桃の花などで飾りつけがされます。
この日は五節句の一つ「上巳の節句」ともされ、桃の節句やひなの節句とも呼ばれています。
「上巳の節句」という名称は、もともと中国で3月最初の巳の日に行われていた儀式が3月3日に固定されて日本に伝わり、桃の節句として定着したためです。
歴史と起源
ひな人形の起源には、以下の説があります。
古代中国で、3月最初の巳の日に川で穢れを清める風習があり、日本にも伝わって、草や藁で作られた人形(ひとがた)に災いを移し、川や海に流す習慣と融合しました。
また、平安時代には、上流階級の子女たちの間で小さな紙人形を使った「ひいな遊び」が行われ、「ひいな」という言葉は「小さい」という意味に由来するとされています。
さらに貴族の間で「天児」や「這子」といった人形が子どものお守りとして使われており、これが立雛の起源となりました。室町時代には現在の雛人形の原型とされる立雛や室町雛が登場しました。
江戸時代から明治時代
江戸時代初期からひな人形を中心とする節句が広まり、寛文時代にはひな祭りとして定着しました。
当時は「ひな遊び」とも呼ばれており、「ひな人形」という名前もこの頃に生まれました。ひな壇は江戸時代初期には平壇でしたが、宝暦以降に段数が増え、幕末には7~8段飾りや十五人揃いの飾りが一般化しました。
江戸中期には、豪華な「享保雛」が登場しましたが、豪華すぎるとして幕府が規制することもありました。
また、寛政の改革では小型で精巧な「芥子雛」が流行しましたが、これも規制を受けています。江戸後期には「有職雛」や「古今雛」と呼ばれる、写実性や華やかさを追求した雛人形も登場し、人気を博しました。
現代のひな祭り
現代では、住宅事情に合わせて三段飾りが主流です。経済産業省の調査によると、2019年度には国内83事業所でひな人形が製造され、埼玉県が最大の出荷額を誇り、主にさいたま市岩槻区と鴻巣市が産地となっています。
まとめ
桃の節句は、3月3日に行われる節句で、女の子の健やかな成長と幸福を願う伝統行事です。
現代では「ひな祭り」と混同されており同じ意味で使用され、ひな人形を飾る風習が広く知られています。
かつては旧暦の3月3日に行われ、桃の花が咲く季節であったことから「桃の節句」と名づけられました。桃の花には邪気を払う力があると信じられていたため、魔除けや厄除けの象徴とされています。
桃の節句の起源は古代中国の「上巳節」にありました。
この行事が日本に伝わり、上巳の節句として3月3日に川で穢れを祓う儀式が行われました。平安時代には貴族の子どもたちの間で「ひいな遊び」として人形遊びが広まり、さらに「ひとがた」と呼ばれる紙の人形に災いを移して川に流す風習も加わりました。
江戸時代になると、ひな人形を飾り、ひな祭りが広く民間にも定着しました。
現代では、ひな人形や桃の花、菱餅、白酒などを用いてお祝いし、3月3日が近づくと家庭や商店で華やかな飾り付けが見られます。
住宅事情により、三段飾りや小型のひな人形も増えており、地域によっては4月3日にお祝いをすることもありますが、女の子の健やかな成長を願う心は変わらず受け継がれています。